聖書 マタイ 12:46~50   宣教題 キリストに結ばれて  説教者 中田義直

マルティン・ブーバーという著名な哲学者は人間と人間の関係には二つの関係があると言っています。一つは「私とあなた」という関係です。そして、もう一つの関係は「私とそれ」という関係です。この二つの関係の違いは、「私とあなた」という関係は人格的な関係であり、「私とそれ」という関係は非人格的な関係ということです。非人格的な関係というのは相手を物のように見るということです。自分に役に立つ道具のように思うということです。『徒然草』の中で兼好法師は「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。」と記しています。今日はここだけ取り出しますが、物をくれる友が良い友だと言っています。そして、もしこの良き友が何らかの事情で物をくれなくなったとして、それでもその人と友人であり続けるならばその人間関係は「私とあなた」ということが出来るでしょう。しかし、物をくれなくなった、自分にとって利益をもたらせてくれないので縁を切ってしまったなら、その人との関係は「私とそれ」という関係であったということになるのです。

この二つの「私とあなた」「私とそれ」という人間と人間の関係ははっきりとどちらかに分けられるという時もありますが、現実にはこの二つの関係がまじりあっていることが多いのではないでしょか。仕事のしていることで出会い、損得勘定から始まった関係がやがてかけがえのない友人関係となることもあるでしょう。反対に愛情で結ばれていたものがやがて金銭的なことだけでつながることになってしまう、ということもありうるのです。イエス様とイエス様を取り巻く人たちとの関係もまた「私とあなた」という関係の人、「私とそれ」という関係の人、そして、その二つが入り混じりあう関係の中にある人もいたことでしょう。

イエス様とその家族、母マリアや兄弟たちとイエス様の関係の中にもこの二つの関係が混じり合っていると思えます。家族には最も深い「私とあなた」という関係があります。しかし、時として家族の中でも「私とそれ」という関係が強くなるときがあります。家族によって大きな利益がもたらされたり、反対に損失や迷惑といったことが降りかかってくるとき、家族の中にも「私とそれ」という関係が際立ってくることがあるのです。

ルカ福音書3章23節に「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた」と記されています。イエス様は30歳ころ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、その後、ヨハネとは異なった仕方で神様のメッセージを人々に語るという活動を始めました。そして、イエス様は弟子たちを集めあちこちを巡り歩いて福音を語り始められましひた。人々はその教えに深い感銘を受けました。イエス様の教えは当時人間としての尊厳を否定されていた人たちを、神様は愛し、神様はその人たちの尊厳を大切にしておられるということを示されました。また、イエス様のなさる癒しの業によって多くの人が病から解放されました。このような活動は人々の注目を集め、多くの人々がイエス様に従いました。その一方で、聖書はこのようなイエス様の活動を快く思っていない人たち、イエスは社会を混乱させる危険な存在だと考える人がいました。マタイ福音書の12章にも、イエス様は悪霊の頭に通じている、と誹謗中傷する人たちがいたことが記されています。

そのような中、郷里に帰って活動しているイエス様のもとに母マリアと兄弟たちが話をしたいと訪ねてきました。イエス様を取り囲んでいた人たちは、マリアたちに気づき「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」とイエス様に取次ぎをしました。しかし、それに対するイエス様の答えは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」というものでした。この言葉に何か突き放したような、家族の関係を大切にしていないような響きを感じることがあります。そのようなことからでしょうか、聖書の解説書の中には、家族は伝道活動をやめさせるためにイエス様を説得しに来たのではないか、という解釈が示されているものがあります。たしかにそのような解釈も成り立つでしょう。イエス様のことを心から喜び、本当に素晴らしい方だという人々がいる一方、イエスと激しく敵対する人たちがいたのですから。きっと、この両方のイエス様に対する評価はマリアを始めイエス様の家族の耳にも届いていたことでしょう。それによって、イエス様の家族たちは平穏な日常生活を送ることが難しい状況になっていたのではないでしょうか。

イエス様の噂は広まり、宗教的なリーダーたちが遠くガリラヤまでその様子を調べに来るほどでした。いわばイエス様は社会現象になっていたのです。マリアは、イエス様が特別な使命を神様から託されているということに気づきながらも、イエス様を巡る様々な騒ぎの中で戸惑い、不安を感じていたのではないでしょうか。それは、イエス様の兄弟たちも同様でしょう。ですから、活動をやめるようにと家族が願うということも十分に考えられることなのです。

さて、イエス様は続けてこう言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」イエス様は弟子たちを指しながら、このように話されました。天の父の御心、それは、神様と人とが、そして、人と人とが「私とあなた」という関係によって結ばれていくことではないでしょうか。そして、イエス様の言葉は母マリアや兄弟たちを拒否している言葉ではありません。イエス様の言葉は、家族という関係を血縁という枠で区切らない、ということだからです。血縁や民族、人種、国籍などによって閉ざされている壁を乗り越える関係があることをイエス様はここで示しておられます。

あなたも私も、神様によって作られ愛されているかけがえのない存在であるということを互いに認め合っていく関係を結ぶことこそ神様の御心ではないでしょうか。神の創造を信じるからこそ、私たちは神様に対しても、人に対しても利害による「私とそれ」という関係を乗り越えて「私とあなた」という関係の中に生きる者でありたいと心から願うのです。

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは私たちを創造してくださいました。ほかに変えることのできない、神の作品としてくださいました。そして、どれほど私たちを大切な存在として愛していてくださるかということをイエス・キリストを通して教えてくださいました。

私たちは家族という交わりや民族や国といったを様々な交わりの中で生きています。そして、時としてその交わりが閉ざされたものとなっていくことがあります。

私たちは自分の安心や利益を求めて交わりを閉ざしてしまう弱さを持っているからです。しかし、神様に作られた神の作品であるという事実を隔てる物はありません。あなたに作られ、あなたに愛されているものとして、私たちが隣人と、そしてあなたと結ばれていきますように。そして、この大切な交わりが閉ざされたものでなく、いつも開かれた交わりとなってゆくことができますようお導きください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書ー

マタイによる福音書 12:46~50

12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」