込められている「意味」を思う           牧師 中田義直

先日、浦和教会で行われた宣教研究所主催の「式文を用いた教会形成研修会」に執筆者の一人として参加してまいりました。午前中は朴所長の開会礼拝のメッセージと西南大学神学部の松見俊先生による講演を聞き、午後はグループに分かれて参加者同士で話し合いの時を持ちました。
各個教会の主体性や一人ひとりが自分の言葉で祈る、いわゆる「自由祈祷」を大切にするバプテスト教会では、教派が「祈りの言葉や礼拝プログラムを定める」という印象のある「式文」を否定的に考えることもあります。そこで、今回、宣教研究所が作成した「式文」は、それぞれの教会が自分たち独自の「式文」を考えるための、たたき台として用いられることを期待して作成されました。
ところで、私は年に数回、休暇の時や説教などに招かれれて他の教会の主日礼拝に出席することがありますが、礼拝の流れや司式者のリードに違和感を感じることがあります。違和感の理由は、良い悪いではなく「いつもと違う」ということなのです。ですから、礼拝前の打ち合わせの時に司式者の方から「こういう理由でこのようにしています」と意味や意図を説明していただいたときには、違和感を覚えることが少ないのです。
私たちの教会の礼拝プログラムにも、意味や意図が込められています。
折々に『週報』の礼拝プログラムを眺め、そこに込められた意味を考えてみることが、バプテスト教会にとって大切なのではないでしょうか。