愚かな手段によって                 牧師 中田義直

個人的な祈りと、家庭の礼拝をつとめ、神よりあずかった子どもたちを、神のみ旨にそうように教え育て、また隣り人を救い主に導くため、
よい証しをたて、主と会う日まで、この約束を固く守ります。
(「教会の約束」より)

今年はルターの宗教改革から500年の年です。一方、プロテスタント500年ということについては、異論もあるようです。それは、ルター以前にも当時の教会に抗議(プロテスト)した人々がいたからです。
プロテスタント教会といっても教派によって大切にするものには違いがあります。バプテスト教会は個人の信仰告白を重視しました。信仰は遺伝のように自然に受け継がれるものではないと考え、また、その国に生まれたという理由で信仰が決められる、というあり方に反対したのです。
バプテストは、「信仰は神の呼びかけに主体的に応答すること」という信仰理解を大切にしました。そして、主体的応答という信仰理解を大切にしたバプテスト教会は、幼児洗礼ではなく教育と伝道を選び取りました。
聖書に「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Ⅰコリント1:21)とあります。国教のように信仰を義務化する方が伝道の効率はよいかもしれません。しかし、愚かな方法であっても、私たちは地道な伝道と「証し」を大切にするのです。