聖書 ローマ3:21~22     宣教題 信仰による義   説教者 中田義直

 

 聖書の旧約、新約の「約」は契約を意味しています。つまり、旧約というのは古い契約のことであり、新約というのは新しい契約のことを意味しています。契約というのは約束のことですが、誰かと契約を結ぶということは「契約」によって、その人との間に関係が生まれることを意味しています。ところで、契約を結ぶということと互いの「信頼」ということはとても重要です。互いに約束を交わすわけですから、それは互いに対する信頼があってこそ契約を結ぶということが起こります。一方で、疑いの心があるから契約書を交わして契約を結ぶということもあるでしょう。もちろん端から疑っている人と契約を結ぶということはないでしょうが、もしも何かトラブルが起きたときに契約書に書かれていることによって、責任を取ったり、責任を回避するということがあるからです。

 聖書の世界はこの「契約」という関係をとても大切にしています。ですから、「正しい」ということ、つまり「義」ということも「契約」という考え抜きに捉えることはできません。契約を守ること、そして、契約を守って良い関係を結ぶこと、それが正しいことであり、義なのです。

 ところで、このような契約というのはお互いが平等な立場で結ぶのが理想でしょう。しかし、世の中には不平等な中で結ばれる契約があります。強い立場と弱い立場にあるものが結ぶ契約にはそのような力関係による不平等なものがあります。最も端的なのは、戦争によって勝ったものと負けたものが結ぶ契約です。また、力関係によって、ひどい目に合わされて契約を結ばされることもあるでしょう。そうしなければもっともっとひどい目に合わされてしまうので、しかたなく結ぶ契約です。

 それでは、聖書の契約はどのような関係の中で結ばれた契約でしょうか。聖書の契約、それは神と人との間で結ばれる契約です。神様と人間の間ですから、そこには圧倒的な力の差があります。全能の神と限界ばかりで不完全な人間です。創造主である神と神によって作られた被造物です。かつてエジプトでで奴隷だったイスラエルの民が、助けを求めた神と、その民の声を聞いて助けてくれた神という関係です。そのような圧倒的な力の違いがありながら、神様が示された契約は人間が不利になるような不公平な契約ではありませんでした。しかし、それでも人間はその契約を全うすることができませんでした。イスラエルの民、そして、私たち人間は契約を守り、正しい者、義なるものとなることができなかったのです。

 契約を全うできず、神様との間に正しい関係を結ぶことのできなかった私たち人間に神様はそれまでとは異なる「新しい契約」をお示しくださいました。そして、その契約は驚くほど不平等な契約です。しかも圧倒的に力ある神様にとってあまりに不利な契約なのです。私たちとお関係を続けるため、神様がいつも私たちと共にいてくださる、そのことのために神様は大切な一人子イエス様を世にお遣わしくださったのです。私たちに問われていること、「私はあなたを愛している。それを信じるか」という神様からのメッセージを受け入れ、信じるかどうかそのことだけなのです。

 パウロは、「3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」と記しています。更に続けてパウロは「3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と記すのです。「ただ、神の恵みにより無償で義とされる」、この言葉をただ信じ、感謝して受け入れること、それこそが「信仰による義」なのです。それは、信じて義とされるというより、一方てきな恵みによって義とされていることを信じるか、ということなのです。

 そして、このことを信じることを通して、私たちは悲しみを超える希望のあることを知らされています。労苦も、痛みも、悲しみのない、神の御国の慰めがあります。私たちは、この地上の人生の中で悩み、苦しみ、嘆き、涙を流すこともあるでしょう。しかし、神様は約束に御国で私たちの涙をご自身のみ手によって拭い去ってくださいます。

 私たちは、主の晩餐を通して神様の示してくださった御子イエス様の流された血によってたてられた「新しい契約」を思い起こし、神様の愛と恵みを感謝して受け止めるのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは私たちと新しい契約を結ぶため、御子イエス様を世に遣わしてくださいました。私たちは皆、あなたの前に罪深いものです。神様の前に誰が自分の義を誇ることができるでしょう。私たちは自分の力であなたの前に正しくあり続けることはできません。そして、隣人との間でも正しく振る舞うことのできない者です。そのような私たちをあなたの民としてくださるために、あなたは愛を示し、救いを受け入れるようにと呼びかけてくださっています。どうかその喜びの言葉、福音を信じ、あなたと共に歩む私たちでありますように。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー ローマの信徒への手紙 3章21節~22節

3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。