聖書 マタイ福音書 19:16~30     宣教題 ただ神によって  牧師 中田義直

 

 学士の時、仲の良い友人と前の日に見たテレビのことを話していた時のことです。「昨日見た」「うん、見たよ。良かったね~」「終わりのところ、きれいだったよね。感動したよ。」と言って話し始めたのですがどうもおかしいのです。話がかみ合いません。そして、気づいたのはお互い別のドラマの話をしていたのです。自分が好きで見ているドラマを素晴らしいと思っていたので、きっとたくさんの人が見ているだろう。気の合う友人なら見ていてほしい、そんな、期待と思い込みから始まった会話でした。「終わりのところ、きれいだったよね」と言いながら、私は海を背景にした夕日の画面を頭の中に思い描き、友人は大都会の夜景を頭の中に思い描いていたのです。

 福音書の中に記されている、イエス様と人々の会話の中には時折このような、かみ合わない場面が出てきます。賛美歌の歌詞にもなっている「金持ちの青年」のエピソード、ここでのイエス様と金持ちの青年の会話にもかみ合っていません。

 イエス様のもとにやってきた青年は「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とイエス様に尋ねています。イエス様はこう答えられました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。そして、このイエス様の答えに青年は「どの掟ですか」と尋ねます。

 この青年は永遠の命を得るためには「どんな良いことをすればよいでしょうか」と尋ねています。この問いかけの主語は「私」でしょう。「私が永遠の命を得るために、私がすべき良いことは何でしょうか」と青年は尋ねているのです。この青年の言葉の背景には、永遠の命に関する彼のはっきりとした考えが示されています。それは、自分が良いことをすれば永遠の命を得ることができる、つまり、自分の力で永遠の命を得ることができると考えていたのです。そして、彼はイエス様が守りなさいとおっしゃった「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」という守るべきことについて、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と応えました。彼は本当に自信があったのでしょう。もっと難しいことでも、私はできると考えていたようです。ところがイエス様の答えは彼の想像を超えるものでした。

 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」というイエス様の言葉は彼の自信を打ち砕きました。自分にはそれはできない、とこの青年はイエス様の前から去ってゆきました。彼は多くの財産を持っていたのです。多くの財産を持つこと、それは祝福のしるしでもありました。神様に愛されている人は豊かな富が与えられ、神から見捨てられている人は貧しい、という価値観があります。それは、アブラハムの物語にも表れていますし、新約聖書の中にも示されている一つの価値観です。そして、イエス様の弟子たちもそのような価値観を持っていました。ですから、イエス様が「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とおっしゃったとき「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った」のです。弟子たちの言葉には、金持ちが救われないのならいったい誰が救われるので、金持ちこそ救われるのだと思っていた、という気持ちが表れています。

 そして、イエス様は「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃいました。金持ちの青年とのやり取り、そして、弟子たちとやり取りの中でこの言葉は示していること、それは「人間の力で永遠の命を得ることはできないが、神様にはそれがおできになる」ということでしょう。永遠の命は人が良いことをすることによってつかみ取るものではなく、ただお一人の良い方にを通して人間に与えられるものなのです。

 イエス様は「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。イエス様こそが永遠の命に至る道です。ただ一人の良い方、神様の愛によって遣わされたイエス様を通して私たちは永遠の命を与えられました。

 ところで、この後のペトロの言葉はイエス様の言葉とかみ合っているでしょうか。ペトロは「私たちはこれだけのことをしましたから、何かいただけるでしょうか」と言っています。この言葉も、金持ちの青年と同じ価値観に立っている言葉ではないでしょうか。自分たちは捨てることができた、だから何かいただけるのでしょうか、というのですから。自分のしたことへの報いをペトロは求めています。これはペトロだけの考えではなく、他の弟子たちも同じように考えていたことでしょう。そして、このペトロの言葉は結果的に、人間の限界を示しているように思えます。金持ちも、そうでない者も、捨てることのできなかった者も、できた者も、神様からの「恵み」を自分の行いへの報いと考えてしまうという限界です。

 主なる神様は、御心に従って事をなさいます。それは時として私たちの目には、先だったものが後にされ、後だったものが先にされているように不可解に、時に不公平に見えることもあるでしょう。しかし、私たちに不思議に思えることであっても、それが最善なのです。

 ペトロをはじめ弟子たちが、行いによらない神様の救いの恵みを受け止めたのはイエス様の十字架の出来事を経験した後でした。イエス様を三度知らないといったペテロを愛し続けてくださるイエス様、その愛は報いではなく恵みです。そして、三度イエス様を知らないといったペテロを見つめるイエス様のまなざしは、イエス様の前を立ち去った若者に向けられたまなざしと重なるように思えます。そしてそれは、それでも私はあなたを愛し続ける、という憐れみと温かさにあふれたまなざしだったのではないでしょうか。

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 神様、あなたは罪びとである私たちを救うため、神様の民としてふさわしくない私たちをあなたの民としてくださるために、御子イエス様をお遣わしになり、十字架と復活を通して、罪からの贖い、永遠の命に至る救いを完成させてくださいました。

 私たちは、自分の力で、罪を克服することはできません。しかし、神様にはそれがおできになります。ただ神様によって、ただ、神様の愛によって私たちは一方的な恵みとして神の民とされ、永遠の命に生きるものとされました。この深い愛と恵みに感謝して、日々歩む私たちでありますようにお導きください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書- マタイによる福音書19章16節~30節

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」