前 奏
招 詞   ヨエル書2章12~13節
讃 美   新生4   来たりて歌え
開会の祈り
讃 美   新生55  父の神よ 夜明けの朝
主の祈り
讃 美   新生339 教会の基
聖 書   マルコによる福音書2章18~22節
                   (新共同訳聖書 新約P64)

「喜びの時代」               マルコ福音書2章18~22節

宣教者:富田愛世牧師

【断食】

 ユダヤ教が大切にしていたことは律法を守るという事でしたが、同じように信仰的な行為という事も大切にしていました。各種の祭りを行い、犠牲を捧げることが第一に上げまれますが、日常的な断食という行為も大切な信仰的な行為と認められていました。

ユダヤ教の断食には、公的な断食、個人的な断食、規定された断食という、大きな3つの括りがあり、それぞれに細かい決まりがあったようです。公的な断食とは旧約聖書のゼカリヤ8章19節にあるように4、5、7、10月に行なわれたものや戦争や飢饉、疫病などが発生した時に行なわれるもので、国をあげて、全員参加として行なわれました。個人的な断食とは喪中のしるしや悔い改め、願いなど祈りを伴ったものがあげられ、自由意志で行なわれていました。そしてもう一つ規定されたものと言うのは、月曜日と木曜日が宗教的に規定された断食の日だったので、ファリサイ派の人々を中心に信仰的に熱心な人々によって行なわれていたようです。

 この断食の習慣は初期のキリスト教においても残され、水曜日と金曜日に行なわれるようになったようです。その後もずっと継承され、宗教改革以後、プロテスタントの教会でも教派的な背景によっては、現在に至るまで継承されています。

 ただ、ここで整理して考えなければならないのは、公的な断食のような強制されるものは別として、規定としての断食と個人的な断食の違いを明確にすることです。どちらも自発的なものですが、見えない圧力や信仰のバロメーターのように受け止めてしまう危険があると言うことです。イエスも個人的な断食はなさいました。公的な宣教活動に入る前に40日の断食をされているのです。しかし、イエスは弟子たちに向かって、規定としての断食を行なうように勧めていないのです。かえって、共に食事をする喜びに強調点を置いているように見えます。

【花婿】

もし今、私が断食をしたりすると「ダイエットですか?」と聞かれそうですが、この当時のユダヤ社会の中で、宗教家の断食という行為は人々から認知されたものだったようです。一般の人々が公的な断食を守っていたかどうかは分かりませんが、少なくとも宗教的に熱心な人々は公的な断食と規定としての断食を守っていたようです。

ですから、人々はイエスの弟子たちが断食しないことを不思議に思っていたようです。人々はイエスのもとに来て「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねています。当然の質問だったのです。しかし、質問を受けたイエスご自身は断食することより15節にあるように食事することのほうを好まれていたようです。

イエスはこの質問に対して「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」と答えられました。この花婿と言うのはイエスのことを表しているのですが、ここでイエスが問題にしているのは、今がどういう時なのかという事なのです。

ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は古い時の中にいるのです。すなわち、メシヤが来られるその時を待ち続けているのです。しかし、メシヤとしてのイエスはすでに目の前にいるのです。にもかかわらず彼らの目はメシヤとしてのイエスを認めることが出来なかったのです。ここに断食問題をきっかけとした、もっと大きな根本的な問題があるのです。

花婿として、この世に来られたイエス・キリストが共にいる時、そこは祝宴の場所となるのです。そこでは断食することよりも、キリストと共にいることを喜ぶことが優先されるのです。

【古い時代】

続けてイエスは「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と語られました。断食をする時とはイエスが取り去られる時なのです。イエスはここで、ご自身の十字架を暗示しておられるのです。十字架につき死んで葬られることを指しています。また、もう一つの視点から見るならば、イエスがいなかった時、つまり、旧約の時代であると言うこともできるのです。旧約の時代であり、イエス不在の時であり、十字架と復活の間なのです。それが古い時代であり、断食をする時なのです。

イエスの語る福音の中心とは価値観の転換だと私は考えています。律法によって罪を自覚する生活から、イエスの十字架による罪の赦しを得て、罪から解放された生活へと変えられるわけですが、その時に十字架をどのように受け止めるのかと言うことが、価値観の転換なのです。今まで私たちが持っていた、この世の価値観というものにおいては、十字架の死という出来事は敗北でしかありません。罪から私たちを救ってくださるはずの救世主が、惨めに十字架の上で死んでいくなどということは力のない「負け」そのものなのです。

しかし、そこに勝利があるとする、全く逆の価値観が存在するのです。それが神の価値観なのです。弱い者がダメなのでしょうか。小さい者がダメなのでしょうか。そんなことはありません。弱くても小さくても、その人の存在に価値があるのです。イエスは十字架に対して全く無力でした。しかし、無力になったからこそ、弱く小さい者と共におられたのです。

イエスの十字架の死は終わりを意味しませんでした。それは永遠の命にいたる道であり、復活の希望がその死の先に待っていたのです。十字架とは、あえて死ぬことによって、死に打ち勝つ勝利を意味しているのです。

【新しい時代】

この復活の希望こそが新しい時代の到来なのです。21節からのたとえ話は古いものと新しいものとは相容れないということを示しています。

新しいものと古いものというように、二つのものが対比されると、どうしても、どちらが大切なのかという二者択一的な見方をしてしまいがちですが、そういうことではないのです。新しいものが大切だからと言って、古いものが必要ないのではありませんし、その反対もそうなのです。ただ、ここでの主題は、どう読んでみても新しさなのです。なのに古いものを大切にしようとしてしまう、それは私たちが古い自分にこだわっているからなのです。新しくなる事に対する恐れがあるからなのです。

イエスは新しい福音を新しい入れ物に入れるようにと勧めています。どこにそのような新しい入れ物があるのでしょうか。この入れ物とは私たち自身の事なのです。私たちがイエスの十字架と復活を信じ、受け入れると言うことは古い価値観に固執するならば不可能な事柄です。しかし、イエスは私たちに新しい入れ物を与えようとされているのです。いや、もうすでに与えてくださっているのです。

花婿としてイエスは来ておられるのです。そして、私たちはその婚礼に招かれている客の一人なのです。すでに婚礼の席についているのですから、もう断食することはできないのです。断食とは、ただ恵による救いを受け入れればいいにも関わらず、まだ、準備が出来ていないと、招きを拒否することです。拒否していては何も始まりません。今、婚礼の客として古い価値観を捨て、新しい価値観、恵みが先行する価値観を受け入れましょう。

讃 美   新生563 すべての恵の
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏