前 奏
招 詞   詩編92編6~7節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生 42 朝の光の中で
主の祈り
讃 美   新生384 語り伝えよ 神のみ言葉
聖 書   マルコによる福音書6章1~6節
              (新共同訳聖書 新約P71)

「愚かな人々」             マルコによる福音書6章1~6節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスの帰郷】

 今日の箇所はイエスが故郷に帰り、そこで福音を語られたことから始まっていますが、なぜイエスは故郷に帰られたのでしょうか?残念ながら直接的な理由について、聖書は何も語っていないので分かりません。

しかし、前後に書かれている様々な出来事から、いくつかのことを推測することができます。

 はじめに推測できることとして。3章31節以下に書かれていたことを思い出すことができます。そこにはイエスが宣教活動を行っている噂が家族や親族の耳にも入り、彼らは病人を癒したり、奇跡を行ったり、神の国について語ったりして、イエスは気が変になっていると思い込んだということです。

それで連れ戻そうとして出て行ったわけですが、イエスは彼らと一緒に家に帰ることを拒みました。そのようなことがあったわけですから、もしかすると家族の希望をかなえるとまではいきませんが、そのことを配慮して、一度家に帰ろうとしたのかも知れないと考えることが出来ます。

 そして、もう一つの推測は故郷であるということには、特別な意味はなく、他の町や村と同じように、そこにも神の国の福音を必要としている人がいたから出かけていったということです。

たぶんこちらの方が説得力のある考え方だと思います。ですからイエスは安息日になって、いつもどおりに会堂に出かけて行き、そこで教え始めたのです。

しかし、そこでイエスを待っていたものは何かと言うと、温かい歓迎の言葉ではありませんでした。疑いや軽蔑の入り混じった、冷たい言葉でした。

【思い出に生きる人】

イエスはいつものように会堂に入り、教え始めました。すると人々はその言葉を聞いて「驚いた」のです。

なぜ驚いたかと言うと、彼らの知っているイエスは「大工」であり「マリヤの子」だったからです。

ここでまた一つ変わった表現がされています。それは、当時の習慣として誰々の子という時は、父親の名前を出していましたが、ここでは「ヨセフの子」と言わずに「マリヤの子」と呼ばれています。

これにもいくつかの理由が考えられます。

第一に父であるヨセフはかなり早い時期に亡くなっていたのではないかと考えられています。ですからイエスの家庭は母マリヤと子どもたちだけで暮らしていたので、マリヤの子と呼ばれていたということです。たぶん状況としてはその通りだったと思われます。しかし、そうだとしても、母の名前を出すのは不自然なのです。

そこでもう一つの考え方として、マリヤはヨセフと結婚する前に、聖霊によって身ごもったわけです。そして、親戚や昔からの近所の人たちはそのことを知っていた。だから、イエスの弟たちについては「ヨセフの子」と呼んだかもしれませんが、イエスはヨセフの子ではないので「マリヤの子」と呼んだのではないかということです。

いずれにしても生まれ育ちの良くない子であり、特別な教育も受けていないはずなのに、なぜ自分たちに教えるのだというひがみと軽蔑の入り混じった思いで見ていたと思われます。

しかし、人は成長し、変化する生き物です。どんな人でも昨日と今日を比べるならば、成長しているし、変化しているはずなのです。にもかかわらず、ナザレの人々は昔のイエスしか見ようとしていなかったのです。つまり、思い出の中でだけ生きているという事ではないでしょうか。

【つまずき】

また、彼らはイエスにつまずきました。私たちは聖書の言葉の一部分だけにこだわってしまうことが良くあります。全体を見ないで、その一部分だけに注目しすぎて誤ってしまうことが良くあるのです。

この「つまずき」という言葉もマルコ9:42を見ると「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と書かれていたり、パウロの手紙を読むと頻繁に「兄弟をつまずかせないように」と書かれているので、過剰に反応してしまうことがあります。

しかし、イエスでさえ、人をつまずかせているのです。つまずかせても良いということではありません。しかし、人をつまずかせないように生きることなど、人には無理な事なのです。

もし、今まで人につまずきを与えずに生きてきたなどという人がいたとするなら、その人はただの大嘘つきにすぎません。私たちはみんな人につまずき、人をつまずかせているということを覚えておかなければならないのです。

そして、一つだけ徹底して覚えておくほうがいいと思うのは、人をつまずかせたという言葉は正直な言葉ですが、人につまずいたと言う言葉は自分を正当化しようとする、偽善的な言葉であることが多いという事です。

誰が、何に、なぜつまずいたのかを見ないで、ただ「つまずくこと」だけを恐れていると「あの人の言葉でつまずいた」などというように、被害者のフリをしながら、実のところは「あの人」のことを裁いているということになってしまうのです。

【力あるわざ】

さて、そのようなナザレの人々に対してイエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と語られました。ちょっと遠まわしな言い方ですが、当時の格言のようなものの一つだったようです。

このようにご自身を拒絶する人々の中にあって、イエスは力あるわざを行うことができなかったという事です。ここで大切なのは「しなかった」のではなく「できなかった」という事です。

ここには信仰を妨げるものは何かという基本的なテーマが流れているのです。イエスが行った力あるわざ、奇跡のわざには人々の信仰が関係しています。もちろん、これは相手の人に信仰がなければ、奇跡を行うことができないということではありません。

福音書の中にある奇跡と呼ばれる事柄の中には、相手の人に信仰があるとか、ないとかいうことは関係なく、イエスの意思、神の意思によって奇跡が起こることもあります。

しかし、注意しなければならないのは、現実に起こっている奇跡を見ることができなくなってしまうことや、起ころうとしている奇跡を妨げるものがあるということです。それは何の働きかと言うと、私たちの不信仰、つまり信じない心なのです。

信仰に関係なく、何かのプログラムに参加する時、それに期待して参加するか、期待せずに参加するかで、受け取るものが違ったり、プログラム自体も変わってしまうことがあります。

コンサートなどでよくあることですが、とにかく大きな会場を一杯にすることのために人を集めたコンサートと、空席が目立つけれど自分の意思で音楽を楽しみに来る人が集まるコンサートでは雰囲気がぜんぜん違ってきます。

教会の礼拝も同じです。礼拝したいという気持ちを持った人が集まる礼拝と、出なきゃいけないという義務感で集まる礼拝ではまったく違う礼拝が出来上がるのです。どちらが正しい礼拝なのかということではありません。

それぞれの教会の目的によって正しさは変わってくるのです。ただ、ナザレの村でイエスの働きを妨げた不信仰のように、礼拝で働く聖霊の働きを妨げてはいけないのです。成長と変化を受け入れ、神の導きを期待しながら信じ続けていくことが大切なのです。



讃 美   新生460 戸口の外にイエスは立ちて
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏