前 奏
招 詞   サムエル記上2章11節
讃 美   新生 5 神の子たちよ主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生523 主われを愛す
主の祈り
讃 美   新生398 みどりの牧場に
聖 書   マルコによる福音書10章13~16節
                     (新共同訳聖書 新約P81)

「こどもの国」           マルコによる福音書10章13~16節

宣教者:富田愛世牧師

【招かれている】

 今日はこどもたちの成長を感謝する礼拝と位置付けて、礼拝を捧げることができて感謝しています。ただ、コロナ危機の中にあって子どもたちを礼拝堂に招くことが制限されているので、少し寂しい感じがしますが、顔と顔を合わせていなかったとしても、心でつながっていることを信じています。

 今日の聖書個所を読みながら、礼拝に子どもたちが参加することについて考えることから始めなければならないと思っています。

 20年位前、アメリカに行く機会があり、その時にあるバプテスト教会に行き、家族4人で礼拝堂に入ろうとしたら「小学生以下の子どもはご遠慮ください」と言われたことがありました。はじめはムッとしたのですが、その教会は千人以上の礼拝をしている教会で、礼拝と同じ時間に子どものプログラムが充実していたので、排除というよりは、子どもたちに対する特別な配慮でした。

また、同時にそれは子育てをしている親たちへの配慮のようにも思えます。ただ、ここで注意しなければならないのは、誰を主体にしているのかということです。子どもを主体とするなら、もしかすると子どもから礼拝するという選択肢を奪っているのかもしれません。

なぜそんなことを思うようになったかと言うと、ある韓国人の牧師先生の言葉がきっかけだったのです。牧師の集まりの中で、ある先生が「子どもが礼拝に参加しないので困っている」という話しがあり、そのことが話題になりました。

いろいろ話しているうちに、その韓国人の先生が「私たちが礼拝に招かれているということは、とても光栄なことです。その光栄な招きに子どもたちも与っていることを伝えたらいいでしょう」と言われたのです。神からの招きに与っているという事は、本当に光栄なことなのです。そして、その招きを大人や親の都合で奪ってはいけないのだということを知らされました。

【弟子の言い分】

さて、今日の箇所は、イエスの周りに人々が幼な子を連れてやってくる場面から始まります。人々はイエスのうわさを聞き、一度会いたい、話を聞きたい、癒しと慰めを与えてもらいたい、祝福してもらいたいと思っていたのでしょう。

その中には子どもに祝福を与えて欲しいと願ってやって来た人たちもいたのです。ところが、弟子たちは「この人々を叱った」とあります。弟子たちが、どのように考えていたのか、聖書は直接語っていないので分かりませんが、いろいろな推測ができます。

イエスは疲れていたから、休ませてあげたいと思っていたとか、信仰もないのにイエスに触れるだけで、神の力が与えられるという、魔術的な思考を嫌ったとか、他にももっとあります。そして、どれも弟子たちの立場に立つならば、間違った考え方ではなかったと思います。

弟子たちは、弟子たちなりにイエスのことを考え、イエスを大切にしていたのです。

しかし、間違ってはいないけれども、融通の利かない律法主義的な考え方だったのではないでしょうか。その点、イエスはいつでも、その時、その場において、最善の行動をとられているのです。そして何よりも弟子たちはイエスの使命、この世での働きの目的を理解していなかったのです。

【イエスの憤り】

弟子たちの行動に対して、イエスは憤りを示しました。なぜでしょうか。それは、子どもたちを排除したからです。厳しい言い方をすれば、子どもたちが神からの祝福を受け、信仰の告白をする機会を奪ってしまったということなのです。

もちろん、その場で子どもたちが、いわゆる信仰告白をするのかと言われれば、そんなことは、まず無いと思います。しかし、幼児期の体験というものは、人の人格形成にとても大きな影響を与えます。「三つ子の魂百まで」という諺は真実なのです。

聖書を読むと、イエスは積極的に子どもと触れあい、子どもを用いておられます。しかし、ここで私たちは勘違いしてはいけません。私たちの中には、子どもは無垢で、純粋で、罪がないというようなイメージを持つことがあり、そんな純粋な子どもだからイエスが招いたと勘違いしてしまうことがあります。

子どもは純粋で、清いわけでもなく、罪がないのでもありません。イエスが子ども、ここでは特に幼な子に焦点を合わせているのは、自分ひとりでは、何もできないからなのです。

幼な子は、イエスのために役立つ存在ではありません。何かを捧げることもできないし、何の業績もありません。かえって手のかかる、厄介な存在なのです。

しかし、役立つから、何かを捧げたから、業績を上げたから、という理由で祝福をもらうのだとしたら、それは祝福ではなく、当然の報酬になってしまうのです。因果応報的な報いになるのです。そうするならば、そこには愛も哀れみも必要なくなってしまい、この世の価値観となんら変わらないものになってしまうのです。

【神の国は…】

イエスは「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と語ります。クリスチャンになるために、どうする、こうするということではないのです。

幼な子は、自分では何もできません。できないことすら分からないのです。しかし、私たちはある程度経験をしてきているわけですから、出来ないことに気づいているのです。気づいているけど、プライドがあるので認めることが出来ないのです。私も同じです。自分の無力さを知っていると言いながら、人の助けを借りることが苦手なのです。

つまり、無力だということを認めたがらないでいるのです。「人に迷惑をかけてはいけません」と言われ続けてきたのですが、本当は誰一人として人に迷惑をかけずには生きられないのです。すべての人は誰かに助けられているのですから、その事実を謙虚に受け止めなければならないのです。

そして、神の国に入るということは、すでにそこにあるから入ることが出来るのです。無いものを、私たちが作って、入るのではありません。クリスチャンというのも、そこにある救いを受けいれるだけなのです。自分で勝手なクリスチャン像を作り、それに近づくのではありません。

イエスは、ただ連れて来られた幼な子を抱き上げ、祝福されました。自分で決断して来たわけではありません。連れて来られたのです。しかし、この事実がとても大切なことなのです。自分の決断ではなく、神の計画、配慮なのです。

ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」という言葉があります。ただ連れてこられただけの幼な子を抱き上げ、手をその上において祝福してくださるのがイエスです。

今、私たちの前にも、同じように両手を広げ、私たちを抱き上げ、手を置き、祝福しようと、イエスが待っておられるのです。幼な子のように素直にイエスの招きに応えていきましょう。

讃 美   新生589 幼き子らを 
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ
祝 祷  
後 奏