前 奏
招 詞   箴言22章9節
讃 美   新生 5 神の子たちよ主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生431 いつくしみ深き
主の祈り
信仰告白
バプテスマ式
讃 美   新生401 わが君イエスよ
聖 書   マルコによる福音書8章1~10節
              (新共同訳聖書 新約P76)

「弟子の未熟さ」            マルコによる福音書8章1~10節

宣教者:富田愛世牧師

【2つの出来事】

 今日の箇所は、同じマルコによる福音書6章32~44節に記録されている有名な5つのパンと2匹の魚で5千人を養った奇跡の物語と非常に良く似た記事です。

 6章では、イエスと弟子たちは休憩するために寂しい所に退きましたが、人々はそれを聞きつけイエスの所に集まってきてしまったのです。イエスは「飼う者のいない羊」のような群衆を見て哀れに思い、彼らに話をされました。

 そして、時間が経過して、弟子たちは、それぞれが食べ物を買うために解散させましょうと提案しました。しかし、それに対してイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じたのです。弟子たちは、それが無理なことだとあきらめていましたが、イエスは「パンは幾つあるのか」と尋ね、そのわずかなもので、5千人を満腹させたのです。

 そして、今日の8章では、3日間もイエスのもとで、その話を聞いていた人々がいたという事なのです。3日間、飲まず食わずで話を聞いていたということではないと思います。きっと、それぞれにお弁当などを持ってきていたのではないかと想像します。しかし、3日も経つとさすがに用意したものも、食べ尽くしてしまったと思うのです。

 3日間、話を聞き続けるなどということを皆さんは想像できますか。

 あまりピンとこないかもしれません。でもバプテスト連盟では50年位前に「新生運動」というプロジェクトが行われ、全国各地で1週間くらい続けて伝道集会をした時期がありました。私は経験していませんが、経験した方たちにとって、賛否はありますが、お祭りとしては、とても楽しい経験だったのだと思います。

 この3日間もきっとそんな感じだったのだろうと思います。そして、今度は弟子ではなくイエスが群衆を解散させようと提案するのです。ただ、その前に群衆に食べ物を与えたかったので、弟子たちにパンが幾つあるかを尋ねると「7つあります」と答えました。そして感謝して割き、集まっていた4千人以上の人々に分け与え、満足させてしまうのです。

 内容としては、ほとんど同じ記事が何故2回も記録されたのでしょうか。それは奇跡という不可解な事柄に対する人間の鈍感さを示そうとしているのです。

【違いと共通点】

 さて、それではもう少し詳しく、2つの記事について見てみたいと思うのですが、その中で違いと共通点を見てみましょう。

 まずその背景ですが、6章はその日の出来事でしたが、8章は3日間続いていた中での最後の出来事です。

 また、6章は弟子が群衆を解散させようと提案しますが、8章はイエス自身が提案しています。そして、持ち合わせの食料も、6章ではパン5つと魚2匹に対して、8章はパン7つと魚が少しでした。集まっていた群衆の数も5千人と4千人、さらに残ったパンくずを集めたカゴの数も12のカゴと7つのカゴでした。

 これらの違いには、それぞれに意味があるようなのです。3日間というのはイエスの十字架から復活までの日数と一致します。弟子の提案ではなく、イエスが提案しているということはイニシアティブを完全にイエスがとっていることを表しています。

 12のカゴと7つのカゴについてみれば、12はイスラエルの12部族や12人の弟子を意味し、7つは初代教会の7人の執事を意味しているのかも知れません。

 こう考えると2つの似た記事が書かれているということは、これから新しい福音の時代に入っていくことを暗示していると考えることも出来るのです。

 さらに、共通点としてはイエスの哀れみの姿と弟子たちの無力な姿という事がいえると思うのです。イエスはいつでも群衆に対して哀れみの目を注がれていた。そして、弟子たちにも共有して欲しいと思っていたのですが、弟子たちはいつも無力だったのです。当然と言ってしまえば、当然なのですが、最終的にはイエスの力に頼らなければならないのです。

【弟子の反応】

 このような違いと共通点を見ていくと、あることに気づくのです。それは、先程、なぜ2回も似たような記事が書かれたのかということの理由として語った事と同じなのですが、人間の鈍感さという事なのです。

 弟子たちにとって6章で起こった出来事と同じような出来事が起こっているわけです。2回目の出来事なのですから、そろそろ理解してもよさそうなことを理解していないのです。

 6章では、その日の出来事でしたが、今回は3日間も一緒にいたのです。前の事を思い出して、もっと早い時期に弟子たちが食事を与えて解散させようと提案してもよかったと思いますが、イエスが提案するまで、弟子たちは何もしませんでした。

 7つパンがあり、前の経験を思い出せば、4節にある「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」というような発言はしなくてもよかったはずです。

 このように見ていくと一つ一つの出来事に、弟子たちの鈍感な姿が見え隠れしているように感じられます。さらに、この出来事の後、イエスは弟子たちと一緒に「ダルマヌタ」の地方に舟に乗って行かれました。

 6章では弟子だけを舟に乗せ、向こう岸のベツサイダに向かわせましたが、途中、風と波に妨害され、どうしていいか分からなくなっていましたので、今回は弟子たちだけで、行かせるのが不安だったのかもしれません。

 人間は一つの経験によって、様々なことを学習しますが、奇跡のような不可解な出来事、論理的に説明できない出来事を前にする時には、通常の学習機能が働かないのかもしれません。

 また、長い間に刷り込まれてしまった常識や価値観というものを持っているわけですから、その常識や価値観から外れてしまったものや事柄に対しては、学習するよりも否定することが先に来てしまうのです。

 特にイエスの言動には、当時の常識や価値観からするならば、非常識とか不可解としか言いようのない事柄がたくさんありました。ですから、寝起きを共にしていた弟子たちでさえ、イエスの言動を受け入れるよりも、直接的ではないにしても、否定的に見ていくことの方が多かったのではないかと思うのです。

【応答】

 この箇所から、私たちは神の業に対する人間の絶望的な鈍感さというものを見せ付けられてしまいます。6章を経験した弟子たちには、事の成り行きが予測できたはずです。しかし、彼らには出来ませんでした。それは不可解な出来事、つまり、奇跡に対して説明を求めようとする態度が邪魔をしていたという事なのです。

 不可解なこと、論理的に整合性のない出来事、そういったことを認めるということは、自分の知識や力以上の存在を認めていくという事なのです。自分が正しい、自分が絶対と思っているうちは出来ません。でも、現実に不可解な出来事は起こるわけですし、論理的に整合性のない現実もあるのです。

 そして、聖書に書かれている奇跡という出来事に対して言うならば、そこには説明ではなく応答が求められているのです。わたしたち人間の知識、常識では考えられないことを神は行ってくださった。どうして、何故、ではなく、その事実を受け入れ、それに対して、どう答えていくかが、私たちの信仰なのです。

 信仰がなければ、それこそ信じられないことばかりなのです。それをあえて信じていく、そして答えていくところに信仰の成長というものが備えられるのです。

讃 美   新生526 主よ わが主よ 
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ
祝 祷  
後 奏