前 奏
 招 詞   詩編24編9~10節
 讃 美   新生 8 主の呼びかけに
 開会の祈り
 讃 美   新生194 まぶねのかたえに
 主の祈り
 讃 美   新生146 み栄えとみ座を去り
 聖 書   マルコによる福音書8章31~9章1節
                      (新共同訳聖書 新約P77) 

「捨てることによって得る」     マルコによる福音書8章31~9章1節

宣教者:富田愛世牧師

【メシアとは?】

 この当時のパレスチナはローマ帝国の支配の下にありました。住民は皆、ローマ帝国への税金とユダヤを治めているヘロデ大王と呼ばれている領主ヘロデへの貢物のために搾取され、貧しい生活を送っていました。

このヘロデ大王は自分の地位を脅かす者に対する容赦ない弾圧と殺戮を繰り返し、恐怖政治で40年という長期政権を維持し、民衆を支配していました。

そのような支配者に対して、民衆も黙っていたわけではなく、反ヘロデ・反ローマの暴動が何度も繰り返されました。そういった社会状況の中で「メシア」を求める運動が活発になっていったようです。

ここで人々が求めていたメシア像とはヘロデ大王の恐怖政治、圧政から民衆を解放してくれる英雄であり、されにはローマ帝国の支配からも解放してくれる本当の王だったのです。

【聖書のメシア】

それに対して、聖書の語る「メシア」とはどのようなイメージなのでしょうか。

旧約聖書の中にはメシア預言と呼ばれる多くの預言が記録されていますが、当時の民衆はそれらを正しく理解していたわけではなさそうです。なぜなら、預言のすべてがイスラエルを救い出す力強い王のようには書かれていなかったからです。

いくつか見てみたいと思いますが、初めにゼカリヤ書9章9節

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」と書かれています。

勝利を与えられた者としてやってくる王という所までは、少し勇ましい感じですが、その王はロバに乗ってやってくるというのです。

 救世主としてやってくる王というのは、戦いに勝利してやってくるわけですから、立派な馬に乗ってやってくるというイメージを民衆は持っていました。しかし、ここに出てくるロバというのは生活必需品のようなイメージです。

また、王として人々の上に立つ存在になるのですから、その家系も立派なものであってほしいというのが人情かも知れませんが、ミカ書5章1節にはこう書かれています。

「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

さらにイザヤ書42章2、3節にはこう書かれています。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。」

勇敢で、力強く、俺について来いというような王ではなく、弱々しく、遠慮がちで、みんなの話を聞くよというような感じの王というより、僕という感じのメシアイメージを描いているのです。

【まだ、ぼんやり】

8章29節でペトロがイエスに対して「あなたは、メシアです。」と告白した時のメシアイメージはどんなイメージだったのでしょうか。

聖書のイメージするメシアではなく、民衆のイメージするような勇敢で、力強く、俺について来い的なイメージが強かったのではないかと思うのです。

ですから、今日の個所でイエスが語るような受難の予告に対して、それを受け入れるのではなく、その言葉を否定するかのように、イエスをわきへお連れして、いさめ始めたのではないでしょうか。

イエスはそんなペトロの行為を拒絶し、ペトロを叱っているのです。それも「サタン、引き下がれ」という強い口調で叱っているのです。

ペトロは「あなたは、メシアです」とはっきりと告白しましたが、この告白もイエスから見るならば、それでも、まだ「ぼんやり」とした告白だったようです。

【キリストに従うとは】

34節以降で、イエスは群集と弟子たちに向かってイエスに従うとはこういうことだと教え始めました。それは今までの価値観を捨てるということなのです。

ただ、自分を捨てるということは、自分なんかどうでもよいと思ったり、自分に価値がないと自己卑下したりすることではありません。自分を捨てても、私たちは健全に生きていかなければなりません。

私たちが健全に生きていくために大切なことの一つは、自己肯定感です。自分を好きになれなければ、自己肯定することは難しいと思います。そうであるなら、自分を愛するということはとても大切なことになります。

ただ、自分を愛するとしても、その動機が何なのかということで、その愛し方も、愛した結果も変わってきてしまうと思うのです。

もし、自分が良い人間だから愛するというのであれば、そこには今までの価値観があるわけで、イエスが言うように自分を捨てることにはなりません。

私たちは誰かに褒めてもらいたいし、感謝してもらいたい、愛してもらいたいと思っています。なぜでしょうか、それは快適に過ごしたいからではないでしょうか。

褒められる自分、感謝される自分、愛される自分を感じる時、私たちは気持ちよくなれるのです。

そんな私たちに向かってイエスは「自分を捨てなさい」と語るのです。つまり、今までの価値観を捨てなさいと語るのです。今までの価値観を捨てるなら、良い自分ではない、悪い自分、情けない自分、出来ない自分を愛することができるようになるのです。

そんな陰の部分の自分を愛せる、新しい私を手に入れることができるならば幸いなことではないでしょうか。

 
 讃 美   新生148 久しく待ちにし 
 献 金   
 頌 栄   新生668 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏