前 奏
 招 詞   ミカ書5章1節
 讃 美   新生8   主の呼びかけに
 開会の祈り
 讃 美   新生157 来たれ友よ喜びもて
 主の祈り
 讃 美   新生195 待ちわびし日
 聖 書   マタイによる福音書2章1~12節
                   (新共同訳聖書 新約P2) 

「別の道」              マタイによる福音書2章1~12節

宣教者:富田愛世牧師

【東方の博士】

 クリスマスおめでとうございます。今日みなさんと共に、礼拝できることが、当たり前ではないということをコロナ危機の中で学ぶことができたのではないかと思います。礼拝堂にいる方もネット上の礼拝動画を通して礼拝している方も、場所や時間は違うかも知れませんが、同じイエスを礼拝していることが大切なのだと思わされます。

クリスマスは私たちの救い主イエス・キリストの誕生を記念する日ですが、2千年前のクリスマスにイエスに出会うことのできた人は、ごく限られた人々でした。

ルカによる福音書では野宿していた羊飼いたちが幼子イエスにお会いすることができたと記録され、マタイによる福音書では東方の占星術学者たちが幼子イエスに会うためはるばる旅をしてきたと記録しています。

口語訳聖書では博士となっていて、現代の私たちが博士と聞くと、大学院などの研究機関で研究し、学術論文をいくつも書き上げるような人を想像しますが、新共同訳聖書では占星術の学者たちと書かれています。簡単に言ってしまうならば、星占いの占い師という事です。

ユダヤ教では、基本的に占いは禁じられていたので、彼らはユダヤの常識からするならば、異教社会に住む外国人で、軽蔑の対象となるような人々だったと思われます。ただヘロデ王へのお目通りがかなっているので自分の国では、それなりの地位にいたと思われます。

しかし、神はそのような人々を招いて、救い主の誕生を祝われたのです。ここに発想の逆転というか、イエスが語られる福音の本質が隠されているのです。ふさわしくないと思われる人が選ばれ、人の常識を超えた出来事が、神の計画の中で進んでいたのです。

この占星術学者たちは、星を観察する中で、不思議な現象を発見し、様々な文献を調べるうちに、ユダヤに新しい王が誕生する時のしるしだという事に気づきました。そして、彼らは、彼らの常識に従って、新しい王が誕生するであろう王宮に向かったのです。

彼らは、豪華な宮殿で盛大な祝宴が開かれる中、ユダヤ人の王が誕生するというイメージをもち、エルサレムの王宮に向いました。しかし、そこに新しい王は居らず、ヘロデ王が祭司や律法学者たちに調べさせたところ、ベツレヘムで何かが起こるという事を突き止めるのです。

【小さき者】

占星術の学者たちは王宮を後にして、もう一度、星に導かれながらイエスが生まれた場所へと進んでいきました。10節を見ると「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と書かれています。ここに学者たちの気持ちが表れているように思うのです。まだ、イエスを見てはいません。しかし「喜びにあふれた」のです。

11節で「家に入ってみると」と書かれていますが、これも決して立派な家ではありません。マリアとヨセフは旅の途中ですから、宿屋だったはずです。最初は王宮を目指してやってきた学者たちは、目の前にある貧しい宿屋を見て、その中にいるであろう、ユダヤ人の王を思い描いて喜んでいるのです。そこで彼らが見たものは、ユダヤの田舎のベツレヘムで「小さき者」として誕生した救い主の姿だったのです。

私たちは勝手に神とか、救い主、メシヤを何かのヒーローのように想像してしまう事が多いと思います。しかし、主の計画の中で、この世に誕生する救い主は、そのような私たちの勝手な常識やイメージとは違った形で、弱い、貧しい、情けない姿で誕生したのです。

しかし、ここには神の計画がありました。一般的なイメージの中で神的な存在というものは、私たち人間と同じ立ち位置にいるのではなく、一段上から見下ろしているようなイメージを持ちがちです。しかし、聖書の語る救い主は私たちと同じ立ち位置、同じ目線で生まれてくださったのです。

ユダヤ人をはじめとして、一般の人々の期待をある意味で裏切り、救い主イエスは弱い、貧しい、情けない私たちと同じ姿をとり、私たちの悲しみ、苦しみ、寂しさ、無力さを共にすることのできるお方として誕生したのです。ここに神の計画の意外性、そして、福音の本質が表されるのです。

【喜びの礼拝】

私たちは勝手なイメージを作り上げてしまうので、貧しい家畜小屋の中でひっそりと生まれた救い主を見て、失望することもあります。

しかし、この占星術の学者たちは外見や状況で判断するのではなく、事の真理を見抜き、みすぼらしい、貧しい部屋の中で、ひれ伏して幼な子を礼拝しました。この学者たちはユダヤ人から見れば、軽蔑されるかもしれない人たちでしたが、ヘロデ王にお目通りできるくらい、対外的には地位のある人たちでした。そんな彼らが、貧しい、みすぼらしい幼な子の前で、ひれ伏すという事はよっぽどの事だと理解できると思います。

そして、彼らは宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この献げ物、贈り物は、義務感や見返りを求めたのではなく、王に出会うことのできた感謝と喜びの表われとして、自分たちの持てる最高のものを献げたのです。私たちの献げるべき礼拝の原点がここにあるのです。

イメージや常識といった周りの目や状況に左右されずに救い主だけを見上げるとき、大きな慰め、いやし、喜びが与えられるのです。

クリスマスという日は、イエス・キリストが生まれた事を記念するだけでなく、主なる神が人になられた、つまり、私たちと同じ立ち位置、目線にまで、下ってきてくださった事を思い起こす時でもあるのです。

善行を積み、精進して、ここまで上ってきなさい、と語る神ではありません。あなたは、あなたのままで素晴らしいのです。だから私があなたの側に降りて行きます。そして、嬉しい時も、楽しい時も、悲しい時も、辛い時も、苦しい時も一緒にいてあげましょう。と約束してくださるのです。

【別の道】

喜びに満たされて帰ろうとした時、夢の中で神からのお告げがありました。それは来た道を帰るのではなく、別の道を通って帰れというものでした。

彼らはヘロデ王から「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」という言葉をかけられていたわけですから、当然、来た道を帰り、その途中ヘロデの王宮に立ち寄り、報告するつもりでいたと思います。

その思いの中には、もしかするとヘロデ王の恐ろしさを知っていたから、言う通りにしなければならないという強迫観念があったかもしれません。

しかし、占星術の学者たちの中には、そんな恐れよりはるかに大きな喜びが満ちていたのです。そして、夢のお告げ、つまり、神の導きに従い別の道を通ることを選び取ったのです。

別の道とは「未知」の道であり、不安があります。迷ってしまったらどうしようとか、ヘロデ王が気付いて追って来たらどうしようとか、様々な思いがあったかもしれません。

しかし、学者たちは神の命じる別の道に進むことを選び取ったのです。別の道に行くとは、方向を変えるということです。方向を変えるということは、悔い改めるということなのです。

悔い改めへと導かれることによって、彼らは平安を得て、喜びながら帰ることができたのです。

 
 讃 美   新生193 人みな喜び歌い祝え
 献 金   
 頌 栄   新生669 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏