前 奏
 招 詞   詩編51編12~14節
 讃 美   新生 3 あがめまつれ うるわしき主
 開会の祈り
 讃 美   新生576 共に集い
 主の祈り
 讃 美   新生563 すべての恵の
 聖 書   マルコによる福音書9章38~41節
               (新共同訳聖書 新約P80) 

「あなたの味方」          マルコによる福音書9章38~41節

宣教者:富田愛世牧師

【ヨハネの発言】

 今日の個所は前後のつながりとは関係なく、突然ヨハネが発言をしているように感じます。

発言の背景を考えると、ヨハネはガリラヤでイエスが伝道活動を始めた初期の段階で弟子となっています。そして、ガリラヤでの活動が一段落し、イエス一行はエルサレム、そして、十字架へと歩み始めた頃の出来事ではないかと思います。

イエスと行動を共にし、イエスの弟子集団が作られて3年程経った頃だと思われるので、もしかすると弟子集団は内向きになっていたのかも知れませんし、ヨハネはヨハネなりに弟子集団を強固なものにしようとしていたのかもしれません。

そんな思いを持っていた時にイエスの名を使って悪霊追い出しをしている人を見かけたようです。

ここで一つ、注目すべき点は「わたしたちに従わない」という言葉の中に誰が含まれているのか、ということです。

この後の話の流れからすると、イエスを含んだ「わたしたち」ではなく、弟子集団に限定した「わたしたち」ではないかと思うのです。

【心の広さ】

ヨハネが意見した人はイエスの名を用いて「悪霊追い出し」をしていました。現代の私たちが「悪霊追い出し」という言葉を聞くと、何かおどろおどろしいもののようなイメージを浮かべるかも知れませんが、今から2千年前の出来事です。日本では弥生時代の中期後半と呼ばれていた頃の出来事です。

今のような医学的な知識はなく、病気などの原因は人には分からない何か霊的な悪者の仕業だと考えても不思議ではありません。

そのような時代にイエスは人々の病を癒し、悪霊追い出しをしていたのです。その働きは人々に受け入れられ、人々の求めに答えていたということなのです。

ヨハネが悪霊追い出しをしている人に向かって「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とイエスに報告したところ、イエスの答えはきっとヨハネにとって期待外れなものだったのではないかと思います。

たぶんヨハネは「褒めてもらえる」と思っていたのではないかと思います。自分たちの仲間を増やしていくことによって、存在感や発言権を持つことができると考えるのが普通です。しかし、イエスの反応は意外なものでした。

イエスは「やめさせてはならない」と答えたのです。ヨハネは「なぜ」と思ったでしょう。それに続く答えは「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」というものでした。

イエスにとっては、自分を褒めてくれるとか、立ててくれるとかいうことは関係ないことなのかもしれません。その働きによって人々が幸せになれるなら、誰がやっても関係ないという心の広さが現れているのです。

【イエスの味方】

続けてイエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と語っているのです。

ガリラヤでの活動を振り返ると、イエスに逆らう人は山ほどいたと思います。

わたしは今、イエスの立場から語っているので、こういう言い方になりますが、当時の常識からすれば、イエスの言動がエルサレム神殿やユダヤ教の教えに逆らっていたと受け止められていたはずです。

しかし、人々はもしかすると本当に自分たちのニーズに答えてくれるのはイエスだと気付いていたかもしれません。気付いていたからこそ、イエスの周りに人々が集まっていたのです。

イエスの言動に自分たちの味方だという思いがあったと思いますが、それを口に出すことの難しい現実があったと思うのです。イエスの行い、イエスの言葉の方が正しいと思っていても、祭司や律法学者たちには逆らえなかったと思います。

ですから、イエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と語るのではないでしょうか。サイレントマジョリティーという言葉をよく聞きます。様々な意味に使われますが、イエスの周りにいた人々はサイレントマジョリティーとして当時の宗教指導者たちに反感を持っていたのではないかと思います。

そして、イエスは発言できない人たちの声なき声に耳を傾け、その人たちをダメな人、勇気のない人と見るのではなく「わたしの味方」と受け止められたのではないでしょうか。

【あなたの味方】

イエスはさらに続けて「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と語りました。

「キリストの弟子」という言葉を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。今の日本なら、何も特別な意味は持たないかもしれません。

しかし、この後、十字架への道へと歩みを進めるイエスと弟子集団にとってこの言葉は大きな意味を持っています。命の危険にさらされることを意味しているのです。

そんな人に、一杯の水を飲ませたなら、その人の仲間だと思われて、同じように捕まってしまうかも知れない、そんな状況を想像させる言葉です。

自分で自分をそのような危機的状況に追い込む人は少ないと思います。しかし、追い込まれてしまう人も現実には存在するということも事実です。

特に今、コロナ危機の中にあって仕事を失った人や医療従事者ということで差別を受けている人、実際にコロナウイルスに罹患して苦しい思いをしている人、そのような人たちも追い込まれた人です。

私たちは「一杯の水」を飲ませてもらう側にも、飲ませる側にも立っているのではないでしょうか。

イエスはそんな私たちの味方になってくださるのです。

 讃 美   新生496 命のもとなる 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏