前 奏
 招 詞   ハガイ書1章8節
 讃 美   新生 3 あがめまつれ うるわしき主
 開会の祈り
 讃 美   新生334 聖なるみ霊よ
 主の祈り
 讃 美   新生286 そのみ名を聞くは
 聖 書   マルコによる福音書9章42~50節
                (新共同訳聖書 新約P80) 

「つまずき」            マルコによる福音書9章42~50節

宣教者:富田愛世牧師

【つまずき】

 今日の個所の一つのテーマは「つまずき」ということです。つまずくとはどういうことを指しているでしょうか。現象としては、一般的に歩いている時に石や段差につまずいて、歩くという行為が妨害されることを指していると思います。このような現象から、何かをする時に途中で障害に合い挫折したりすることを指しています。

このように人をつまずかせる物や事柄を取り除くことが大切だということを、この箇所は語っているような気がします。

しかし、私たちは人をつまずかせないように生活することができるのでしょうか?

同じ言葉をかけたとしても、ある人には励ましになりますが、別の人にとってはつまずきになることがあります。例えば「ガンバレ」と言う時、多くの人にとっては励ましの言葉になるかもしれませんが、頑張って精魂尽き果てたような状況にある人にとっては、傷口に塩を塗るような言葉に聞こえることがあるかも知れません。

人を励まそうとしても、知らずにつまずかせていることがある、ということを頭の片隅に置いておくことは大切なことではないでしょうか。

イエスを非難した祭司や律法学者たちは「自分は他人をつまずかせるような者ではないことに感謝します」などという祈りを捧げていたのではないかと想像します。

【小さな者をつまずかせる】

42節には「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とあります。

非常に物騒な物言いになっていますが「わたしを信じる」という言葉と、41節にある「キリストの弟子」という言葉はほとんど同じ意味で語られているのではないかと思うのです。

そして「小さな者」が出てくるのは36節から37節に出てくる「一人の子供」や41節に出てくる「一杯の水を飲ませてくれる者」と関係しているのです。

一般的に「未熟」であるとか「未発達」であると思われ、一人前扱いされていない人、年齢的に小さいだけでなく、役に立たない人という思いが根底には流れていると思われます。

イエスはそのような人たち、ないがしろにされているような人たちにこそ、目を向ける必要があるということを伝えているのです。

祭司や律法学者たちに代表されるような人たち、もしかすると社会の大半を占めている人たちなのかもしれませんが、そのような人たちは、自分にとってメリットのある人、役に立つ人を大切にします。なぜなら、そこで恩を売っておくことによって、後々自分が恩恵を受けると計算しているからです。

しかし、神の国とはそのようなものではないと、イエスは語っているのです。

【自分をつまずかせる】

次に43節から47節までは「もし~があなたをつまずかせるなら」という言い方で、自分をつまずかせてはいけないと語っています。

最初に「つまずく」とは「現象としては、一般的に歩いている時に石や段差につまずいて、歩くという行為が妨害されることを指している。このような現象から、何かをする時に途中で障害に合い挫折したりすることを指しています」と言いました。

ここで語られるのは、信仰の話ですから、信仰の歩みを止めるということ、つまり罪を犯すということと考えても間違いではありません。

ですから、自分をつまずかせるということは、自分に罪を犯させるということです。この書き方だと、自分では罪を犯したくないと願っていたとしても「手」が「足」が「目」が罪を犯させてしまうということになります。

ドラマやドキュメンタリーで、万引きした人に言い訳を聞いていると「つい手が出てしまった」というような話を聞くことがあります。つい手が出てしまう、つい足が出てしまう、ということがあるのです。

また、私たちの物欲をくすぐるような、素敵な物を見てしまうと、欲しくて欲しくてたまらなくなる。見なければよかったと後悔してしまう。そんなことがあるのではないでしょうか。

イエスは、そんな私たちに「両手が」「両足が」「両目が」そろったまま地獄に行くより「片手」「片足」「片目」で神の国に入る方が良いと語るのです。

ただ、ここまでの言葉は命令ではありません。私たちは聖書の言葉をすぐに「こうしなさい」「ああしてはだめ」という命令として捉えてしまうことがあります。そうではなく、イエスは事実を語っているのです。

【塩を持ちなさい】

そして49節で「人は皆、火で塩味を付けられる」と語り、締めくくろうとしています。

ここで一つ注意しなければならないのは48節で語られる「火」とは別のことだということです。48節は地獄の苦しさを表すために「火」という言葉を用いていますが、49節は違います。

火という試練を通して、私たちの信仰は確かなものとされます。それが塩味を付けられるということなのです。

そして、この試練も私たちが途方に暮れてしまうようなものではなく、視点を変えたり、考え方を変えることによって解決策が与えられるものだと語るのです。

「火で塩味を付けられる」とはっきり宣言し「自分自身の内に塩を持ちなさい」ということは、どこかから塩を探してきなさいということではありません。塩味を付けられているのですから、それに気づけば、塩を内に持っていることに気づくのです。

聖書の中で「塩」という言葉が使われる時、それは価値のあるものを指していることが多いのです。ここでは、塩味を付けられることによって、平和に過ごすことができるようになると語っているのです。

私たちが語る言葉は、良かれと思っていたとしても、時には人をつまずかせ、傷つけるものになってしまいます。しかし、塩で味付けられる時、その言葉は優しい言葉になるというのです。人との間に「平和」を築く言葉になるというのです。

 
 讃 美   新生404 聖なるみ霊よ 来りませ 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏