前 奏
 招 詞   詩編100編5節
 讃 美   新生 3 あがめまつれ うるわしき主
 開会の祈り
 讃 美   新生 43 主をたたえよ
 主の祈り
 讃 美   新生397 み神を愛する主のしもべは
 聖 書   マルコによる福音書10章1~12節
                  (新共同訳聖書 新約P80) 

「祝福された関係」          マルコによる福音書10章1~12節

宣教者:富田愛世牧師

【結婚】

 この箇所はファリサイ派の人々がイエスを試そうとして「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問をしたことから始まり、結婚についてイエスが語っています。

 以前、札幌にいた時、数年間ブライダルの仕事もしていました。当時は教会式の結婚式が流行っていたので、多い時には週に5、6組の結婚式の司式をしていました。

結婚式専門のチャペルから頼まれて司式をすることがほとんどでしたから、様々な人と出会い、様々な結婚のスタイルを見てきました。生活環境の変化や人権意識の高まりということが影響して、結婚のスタイルも時代と共に変化しています。

 しかし、結婚とは何だろうと問う時、一番大切にしなければならないことはスタイルではなく、なぜ結婚するのかという事ではないかと思うのです。人はなぜ結婚するのでしょうか。本能的に子孫を残すためでしょうか。そんな答えしかないとすれば、とても悲しい気がします。

 それでは、聖書はその点についてどう語っているでしょうか。

聖書では結婚とは神によって定められた、人と人との結びつきだと語っているのです。先ほど読んだ9節を見ると

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というように、神によって結び合わされた関係が結婚だと言うのです。さらに、今日は制度としての結婚に限定されない、人と人との関係として考えていただきたいと思います。なぜなら、パウロは結婚するよりひとりでいるほうが良いと語りましたが、人との関係を否定しているのではありません。

結婚する人、しない人、出来る人、出来ない人、いろんな人がいて、神はそれらをみんな善しとしてくださっているのです。私は結婚しなければならないとは考えていませんが、今日は便宜上「結婚」という言葉を用いますので誤解のないようにしてください。

【否定的な質問】

それでは、今日の聖書の箇所から「結婚」について見ていきたいと思いますが、ここでの会話の前提は、ファリサイ派の人々からの否定的な質問だと言うことです。

否定的な質問と言うのは、何かに疑問を持って質問するのとは性質が違います。明らかに、相手を陥れようとするための質問なのです。国会中継などを見ると、この手の質問がよくなされていますし、私たちの周りにもよくある質問です。

その人の気持ちは決まっているくせに「~してはいけないんでしょうか」なんて質問してくる人がいます。そんな質問にウッカリ「ハイ」なんて答えようものなら、後でえらい目にあってしまいます。

「誰々さんがダメって言ったから、やっちゃダメよ」なんて話が広まってしまうわけで、本当はただ質問に答えただけなのにと言い訳しても後の祭りになってしまいます。

イエスに対するファリサイ派の人々の質問もそのようなもので、原則としては離婚してはいけないという考え方があったのです。しかし、場合によっては許されるという律法の規定がありました。ですからイエスがここで離婚を肯定すれば、神の教えに反すると言うことが出来るし、否定すれば律法の規定を無視したと言うことが出来るのです。

イエスは「モーセはなんと命じたか」と律法の規定を確認させたうえで、結婚に対する神の原則を語られたのです。それは、離婚する可能性のある結びつきではなく、神によって合わせられ、祝福されるべき結びつきなのだということなのです。

【結婚における祝福】

それでは今日のタイトルにもなっていますが、祝福とはいったいどういう意味でしょうか。ここでは結婚ということに限定して考えてみたいと思います。なぜ限定するかというと、日本人の結婚観からは、すぐに家庭や家族に発展してしまうからです。聖書の語る結婚とは二人の人間の関係性が基本になっているという事です。

 6節から見ていくと「天地創造の初めから」という事で、便宜上作られた関係ではないと言うことです。そして「男と女に造られた」のです。これは性別と言うことではありません。役割の違うものが造られていると言うことです。

私たちの日常の会話の中で「うまくいく」という言葉がいろんな場面で出てきます。夫婦関係においても、うまくいっていると祝福されていると考えてしまいます。しかし、現実を見る時、うまくいっている事が必ずしも祝福されているとは限りません。

多くの日本の夫婦関係は、女性が我慢し、犠牲になることで成り立っています。女性の役割は犠牲になることではありませんし、もし、その犠牲の上に男性の役割が成り立つのならば、何も出来ない乳飲み子と同じになってしまいます。互いの役割を明確にし、その役割を担うところに祝福があるのです。

7節では「父母を離れ」とあります。つまり家の結婚ではなく、一人の人間と人間の関係だと言うことです。

結婚する時、男性は女性の家に行って「娘さんをください」と挨拶するのがしきたりになっていますが、女性は物ではありませんから「ください」ではないはずですし、独立した人間同士の結婚ならば、親の承諾など本来は不必要なのです。もちろん大切な親ですから報告して、喜んでもらいたいと思う気持ちは大切だと思います。

そして8節では「二人は一体」だと語られます。一体とは同じになることではなく、互いの欠けを補い合うという事です。ジグソーパズルはいろんな形のピースが一体となって、一つの作品になります。もし全部同じ形のピースだったら、作品は完成しません。

二人が一体となるということは、互いに違いがあることを認めて、その違いがお互いの喜びになることです。互いの人格を認め合うところに祝福があるのです。

【祝福された結婚】

祝福された結婚とは、お互いが成熟することなのです。お互いに成熟する時、祝福を祝福として受けいれられるのです。

聖書では忍耐することを教えていますが、一体となった一方だけが耐えることは成熟ではありません。一体となったわけですから、相手を助け、助けられる必要があります。それが本当の思いやりであり、成熟することなのです。

神の望んでおられることは、夫婦が互いに喜ぶ姿を見ることなのです。しかし、人間は罪を持っています。この罪は人を不幸にしようとする力なのです。そして、その人自身が罪のゆえに不幸を作り出してしまうのです。

ある時には、自分が悲劇のヒーロー、ヒロインになることによって自己満足を得るのですが、この自己満足は生産的なものを何も生み出しません。ただ、不幸だけが後に残るのです。神に主権を明け渡し、神の計画を受け入れることが大切なのです。

結婚している人は、その結婚が神によって合わせられたものだと信じていくことによって、また、まだ結婚していない人は神が合わせてくださる人を願い求めることによって、そして、結婚しない人は結婚制度にとらわれない人間関係の中で神の祝福が与えられるのです。

 
 讃 美   新生559 わが主イエスよ 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏