前 奏
 招 詞   士師記5章10節
 讃 美   新生 4 来りて歌え
 開会の祈り
 讃 美   新生355 主の備えられし
 主の祈り
 讃 美   新生427 われらの主イエスよ
 聖 書   マルコによる福音書11章1~11節
                (新共同訳聖書 新約P83) 

「ロード」             マルコによる福音書11章1~11節

宣教者:富田愛世牧師

【神の都エルサレム】

マルコ福音書ではここからいよいよ十字架への具体的な歩みが始まります。つまり、エルサレムでの出来事が語られるということなのです。そこでエルサレムとはどういう所なのかということから見ていきましょう。

エルサレムという町は不思議な町で、現在はユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の三大一神教の聖地となっています。しかし、この「聖地」であるということが世界中の様々な争いの火種の一つになっていることも皮肉な事実だと思うのです。

新約聖書の当時も、すでに離散の民となっていたユダヤ人にとって「聖地」であり、魂の拠り所となっていました。

自分たちの国を持たないユダヤ人にとって、エルサレムの神殿はとても重要な場所であり、そこに行くことによって、自分たちがユダヤ人であることを確認していたのです。

そのような状況にあって、ユダヤ人たちは自分たちを解放し、ユダヤという国家を再建する指導者、王を待ち望んでいました。

イエスの弟子たちやその周辺にいた群衆たちは、イエスこそが、そのメシアであり、ユダヤ国家をローマ帝国の支配下から解放し、国家の再建をしてくれる王であると思っていたようなのです。

【ベタニヤ村】

そのようなエルサレムを目の前にして、マルコ福音書はイエス一行がベトファゲとベタニヤの付近に来られた事に注目しています。位置関係としてベタニヤはエルサレムから東に3キロほどの地点にあり、その中間地点にベトファゲという村があったようです。

この二つの村はエルサレムに比べるならば、とても小さな村で、対照的な存在と見ることが出来ます。聖書以外の歴史的な書物にはほとんど登場することのないような村ですが、福音書記者たちは、あえてそこにイエスがこだわったことを書き記しているのです。

ベトファゲとは「未熟なイチジクの所」という意味で、この後12節からのイチジクの木を呪われた話しに関係があると思われています。

そして、ベタニヤは「悩む者の家」「貧しい者の家」という意味があり、聖書の中に何回も登場します。ヨハネ福音書によればマルタとマリヤの姉妹とその兄弟ラザロが住んでいた村で、マタイとマルコ福音書によれば、重い皮膚病を癒されたシモンの住んでいた村なのです。

イエスとの関係で見ていくと、エルサレムは否定的な意味合いを持って描かれていますが、ベタニヤは肯定的に描かれています。

大都市エルサレムと、その周辺にある小さな村ベタニヤ、この対照的な場所がイエスの福音を理解するうえでは、重要なキーワードとなるような気がします。

現代的な言い方をすれば、消費社会と生産社会、勝ち組と負け組み、軍備拡張主義と非暴力運動、というような対照的な関係を表しているのです。

そして、イエスの語る福音はエルサレムからは否定されますが、ベタニヤであり、生産社会であり、負け組みであり、非暴力運動からは受け入れられ、その働きの中から福音が語られているのです。

【ろばの子に乗って】

聖書に目を戻していくと、さっそくイエスはエルサレムに入られる準備にかかっています。そのために必要なものを用意するように弟子たちに命じました。

その命令は「向こうの村に行き、ロバの子を連れてきなさい」というものでした。

この「向こうの村」とは、どこを指しているのかハッキリとは分かりませんが、ベタニヤを指しているという説が有力なので、ここではベタニヤでロバを調達したと考えてかまわないと思います。

ユダヤ人の王になるはずの方がエルサレムに入城する時に、ロバの子に乗って行こうとするということは、どういうことでしょうか。私たちは当たり前のように聖書を読んできてしまったので、この意味が分からなくなっています。しかし、良く考えると常識はずれな出来事なのです。

王という権力のトップに立つ者はそれにふさわしい方法で登場してほしかったと思うのです。力や富の象徴としての乗り物は馬でしたが、それには乗らず、庶民の道具としてのロバの子に乗って来てしまったのです。

旧約聖書の規定によるならば、すべての家畜の初子は神への感謝の捧げ物として、捧げなければなりませんでしたが、一つだけ例外がありました。それがロバでした。ロバに限っては、初子が生まれたら、その代わりに子羊を捧げるように決められているのです。つまりロバの子は神への捧げ物にならないくらい、価値のないものだったのです。

しかし、ここに福音の本質が表されているのです。それは、どういう事かと言うと、王として来られるイエスは、力や富によって支配しようとするのではなく、小さい者、弱い者の傍らに一緒にいてくださるお方だという事なのです。

そして、捧げ物にすらなり得ない物とは、救いがたい人々でもありますが、そんなダメな者、罪人をも救いの対象としてくださることを表しているのです。

【群衆の歓喜】

8節からは、エルサレムに入城されるイエスの姿が描かれています。群衆はエルサレムに入られるイエスに向かい「ホサナ」と叫び、自分の服を道に敷き、葉のついた枝を敷きました。

彼らにとっての精一杯の歓迎の態度が表されています。「なぜロバなのか」という疑問もあったでしょうが、そんな疑問も吹き飛んでしまうほど、群衆はイエスに夢中だったのです。

しかし、この「ホサナ」と叫ぶ同じ口が、1週間後には「十字架につけよ」という叫び声に変わることを、この時には誰も自覚していませんし、予想もしていないのです。しかし、これが群集心理というものなのです。

私は、この群衆の姿と自分の姿がダブって見えることがあります。一日の終わりの祈りで、あんな事しなければよかった、言わなければ良かったと後悔することがたくさんあります。明日は気をつけようと思って寝ても、翌日には同じ事をやり、同じ事を言ってしまうのです。

こんな私たちに対して、イエスは裁きではなく愛をもって答えてくださいます。何も出来ないばかりか、その存在すらも否定されそうなロバの子を用いられるように、私たちのために十字架にかかり「彼らは何をやっているのか、分からないのです」と執り成しと赦しの祈りをしてくださり、さらに、そんなあなたが必要だと言って用いてくださるのです。

 
 
 讃 美   新生208 賛美とほまれ汝に帰して 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏