前 奏
 招 詞   エレミヤ書1章10節
 讃 美   新生13 ほめまつれ 主なる神
 開会の祈り
 讃 美   新生176 主は豊かであったのに
 主の祈り
 讃 美   新生230 丘の上に立てる十字架
 聖 書   マルコによる福音書11章27~33節
                (新共同訳聖書 新約P85) 

「権力者の妬み」          マルコによる福音書11章27~33節

宣教者:富田愛世牧師

【人間社会と権威】

今日の個所は新共同訳聖書の小見出しに「権威についての問答」と書かれています。権威ということについていろいろと考えさせられることがあります。

特に今、コロナ危機という社会状況の中にあって様々な判断をする時、何の権威によって判断するのかということが重要になってきます。いわゆる専門家と呼ばれる人たちが、様々な判断をしていますが、正しい権威に基づいて判断しているのならば納得できますが、もし、それが間違った権威に基づいているとしたら、大変な問題になってしまうと思うのです。

今、正しい権威と言いましたが、権威という言葉には2つの意味があるようで、辞書を調べると

①ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。

②他の者を服従させる威力。

とありました。

 ①の意味において権威をもって判断することには、従うことができますが、②の意味で権威という言葉が使われる時には、無批判に従うことはできないと思うのです。

 他の者を服従させる威力というものが、多くの人が納得する学術的な裏付けや権威者と呼ばれる人の経験や知恵に基づいているならばよいのですが、今の日本社会では暴力や金の力で他の者を服従させている権威が横行しているように感じます。

【ユダヤの権力者】

ユダヤ社会において、本来は神が絶対的な権威として立てられていました。しかし、いつの間にか律法主義が神に取って代わってしまったのです。

そこにはイスラエルの民が神の支配から離れ、国家を形成しようとした過ちがあるのです。

国家が形成されるためには、支配者と従う者という構図が作られてしまいます。初めは王が支配者、国のトップとして君臨していましたが、イスラエルという王国が崩壊し、民が散らされてしまった後、ユダヤ教という宗教が民族をまとめるものとなりました。

そして、宗教指導者が民族の支配者となり、支配者はどうすれば国民に気づかれずに支配できるかを考え、その結果、600以上の律法規定(正確には613)が作られ、その頂点に祭司長、律法学者、長老が君臨するようになったのです。

もちろん宗教指導者たちも最初から支配者になろうとは考えていなかったはずです。民の生活と律法が身近なものになるよう様々な規定を作ったと思います。しかし、そのうちに権力を握るようになると、人は変わってしまうものなのです。

彼らは律法を「神の言葉」にすり替えて民衆を縛り、自らの権威付けに用いてしまったのです。

【イエスの権威】

イエスの登場は、そんなユダヤの権力者たちにとって「目の上のたんこぶ」のような存在でした。神を絶対的な権威としていたイエスの言動は、権力者たちの目には自由すぎて、自分たちの権威、権力を根本から揺るがすものに見えたのです。

安息日に人を癒す行為、罪人や異邦人と交わるという行為、さらにはこの箇所の直前にある、神殿で商売人や両替人を追い出す行為は、祭司長、律法学者、長老たちといった、この世の権力者たちの立場を揺るがしてしまうような行為だったのです。

権力者が自分たちの立場を守るために、経済格差を作り上げ、弱者を切り捨て、富と権力を一極に集中しようとする姿はユダヤ社会も日本社会も同じようなものなのです。

イエスはそのような不正に対して、旧約聖書の預言者的な立場で糾弾したのです。ただ、ここでこの世のものとは違うことは、イエスは力による弾圧に対して、同じ方法を用いなかったということです。

祭司長や律法学者、長老たちはイエスに向かって「何の権威によってこのようなことをするのか」と問いました。答えは決まっていました。神の権威によってということなのです。しかし、イエスは敢えて答えを出さずに、彼らに考えさせたのです。

【神の国】

しかし、彼らには考える力がありませんでした。正確に言えば、考える力はあったのですが、それは自分たちの利害関係において、誰が得をするかということにしか興味がなかったのです。

彼らは神に仕えると言いながら、神を中心に考えるのではなく、自分たちの立場を守ることを第一とした考え方で、考えたのです。

イエスの語る神の国は、この世の権威、権力とはまったく性質の違うものでした。それがイエスの語られる「福音」なのです。

貧しい者が幸いであり、受けるより与えるほうが幸いであり、敵を愛し、右の頬を打たれれば、左の頬も出しなさいという、人間には受け入れることの難しいものなのです。しかし、自分の力では出来ないことを正直に告白するならば、神が備えてくださるのです。

神の国は権威や権力のような力ではありません。弱い者や貧しい者に寄り添うことなのです。そこからしか、スタートできないのです。

神のひとり子は、この世に降って来られ人となりました。低い所に降りてきてくださったのです。そして、何かを発信するのではなく、小さな者の側に寄り添い、その訴えを聞き、その存在を受け入れてくださったのです。

イエスの言動はすべて神を土台としていました。ですからイエスには、神からのメッセージを語ること、これに生きること、そして応答を待つことしか出来ないのです。

今も私たちの周りには、様々な権威、権力があります。しかし、本当に大切なものは多くはありません。イエスの自由な姿から、それを感じ取っていくことが必要です。そのために私たちに与えられている信仰の目を、耳を、研ぎ澄ましていかなければならないのです。

  讃 美   新生481 迷い多きこの世 
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏