前 奏
 招 詞   申命記6章5節
 讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
 開会の祈り
 讃 美   新生 55 父の神よ 夜明けの朝
 主の祈り
 讃 美   新生339 教会の基
 聖 書   マルコによる福音書12章28~34節
                   (新共同訳聖書 新約P87) 

「大切なこと」               マルコによる福音書12章28~34節

宣教者:富田愛世牧師

【律法学者の真意】

皆さんはミッションステートメントという言葉をご存知でしょうか。日本がバブル景気でにぎわっていた頃、アメリカでは経済が停滞していて、多くの企業が自らの存在意義を問い直すためにミッションステートメント、つまり、企業の目的、使命を再確認する作業を始めました。その結果、多くの企業が数値的に業績を回復させるだけでなく、モチベーションもあがり、活気が出てきたということです。

その後、日本の経済界でもミッションステートメントの重要性が語られるようになり、十数年前にはバプテスト連盟でも語られるようになりました。しかし、この言葉は元々、キリスト教会の中から生まれたものなのです。それが一人歩きして、経済界で認められ、キリスト教会に帰ってきたような感じなのです。

さて、今日の聖書に入る前に、キリスト教とはいったいどんな宗教ですか。と問われるなら、どう答えるでしょうか。たぶん多くの人は「愛の宗教です」と答えられると思います。この「愛」という言葉がある意味ではキリスト教のミッションステートメントだと思うのです。神の愛を受け止め、それを伝えるのがキリスト教の使命なのです。

しかし、聖書には愛とは程遠いような物語がたくさん出てきます。福音書を読むと律法学者がよく登場します。たいていの場合はイエスを試そうとしたり、敵意を持っていたりします。

ここに登場する律法学者がどのような感情をイエスに対して抱いていたのかは、聖書に書いていないので分かりませんが、二つの立場を想定することができます。

一つは大部分の登場の仕方と同じく、イエスに敵意を持ち、試そうとして質問をしたのだと思われます。もう一つは、彼が今までのイエスの話しを聞いていて「この方なら真理を知っているかも知れない」と感じて質問したのかも知れません。

【大きな誤解】

今日の箇所においては、きっと後者の方で、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々とのやり取りを聞き、その見事な受け答えを聞いて信頼感を持って質問したと思われます。

彼は意地悪ではなく、本心から「どれが第一の戒めですか」と聞いたと思います。なぜならば、当時の律法はとんでもないくらいたくさんあり、何かをしなければならないという律法が248、何かをしてはいけないという律法が365、合わせて613の律法があったそうです。

もちろん現代の法治国家といわれるような国の法律の数に比べれば、少ないかもしれませんが、ユダヤ人にとっての律法というのは、日本人にとっての法律に比べるなら、もっと身近で、生活と密接な関係にありました。ですから、どれが一番大切かということに興味を持つのは当然のことだったと思います。

律法学者の質問に対してイエスは「唯一の主なる神さまだけを心、精神、思い、力をつくして愛する」こと、そして「自分のように隣り人を愛する」ことが一番大切なことであると教えられました。言ってみるならば、イエスが語られた神のミッションステートメントです。そして、これがキリストのミッションステートメントだと思うのです。

キリスト教が愛の宗教だと言われるのは、このように神を愛し、隣り人を愛し、自分を愛することを大切にするからなのです。

ここに愛すべき3つのものが出てきます。それは、神、隣り人、そして自分です。

神については「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛しなさい」と細かく語られています。心と精神と思いにどのような違いがあるのかよく分かりません。ただ、これだけ重ねて語るということは、全身全霊を持って、すべてにおいて神を愛していきなさいということを伝えようとしているのです。口先だけで愛しますと言うのではなく、思いも行動も、生き方すべてにおいて神を愛していくことを語っているのです。

 さらに自分を愛するように隣り人を愛しなさいと言われます。伝統的に「自分を愛する」ことは自己愛なので、イエスの意図に反すると言われてきましたが、本当にそうでしょうか。

【一番大切な教え】

自分を置いておいて、神や隣り人を愛することなど、人間には不可能なことなのです。冷静によく考えてみてください。自分を捨てて、隣り人を愛するという行為があったとします。しかし、その動機はどこから来るでしょうか。

三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」という小説があります。隣人愛の教科書のような、実話を元にした小説ですが、主人公の青年が自分の命を犠牲にして多くの人の命を救いました。しかし、もし主人公の青年が、自分の行為によって天国にいけるという希望や確信を持っていなかったなら、あのようなことが出来たでしょうか。

もちろん、その時はとっさの判断で、そんなことは考えなかったでしょう。しかし、彼の深層心理には、聖書に基づいたキリスト信仰がありました。仮に隣り人を愛することは罪であり、他人の犠牲となって死ぬと地獄に行くのだと教えられていたとするなら、彼はあのような行為に出たでしょうか。

これは極論ですが、どんなにがんばっても自分に不利益しかもたらさないならば、そんなことはしないと思います。少なくとも私はそうです。最終的に、最後の裁きの時には神から評価されるという希望があるから出来るのではないでしょうか。そして、それは自分を愛せるからできる、他人への愛の行為なのです。自分を愛せない人は、神も隣り人も愛することは出来ないのです。

この3つは「どれが一番」ということではなく、互いに補い合う関係なのです。神を愛さない者は、自分も隣り人も愛せません。同じように自分を愛せない者には、神を愛することも隣り人を愛することも出来ないのです。愛というものは比べるものではないのです。

律法学者はイエスに向かって「どれが第一の戒めか」と尋ねましたが、イエスは2つの戒めを語りました。つまり、二者択一的に割り切れるものではないのです。その時々に応じた優先順位はあるでしょうが2つの戒めに書かれている3つの愛する対象は、3つで一つなのです。それでも、どれ、と言われるなら「愛する」ということだと思うのです。

【真摯な態度】

律法学者はイエスの教えに対して「その通りです」と答え、さらに「すべてのいけにえや供え物よりも大事なことです」と答えました。本来、律法学者たちのような宗教的指導者たちにとっては、今まで行われてきた伝統を継承していくことが最優先していました。それはきわめて自己保身的な理由からでした。

しかし、彼は自分の立場や教義に囚われることなく真理を求めたのです。それは「愛する」ということでした。

彼は自分を捨てました。しかし、自分を愛さないのではありません。主義、主張、経験、立場、権威、地位、そういったものが自分を守ってくれると勘違いしていたことに気づけたから、それらを捨てることができました。

そして、本当に自分を守ってくれるものに気づくことが出来たから、自分を愛し、神を愛し、隣り人を愛することを選び取ったのです。

彼は、イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われました。この後、彼がどうしたのかは謎です。イエスに従ったとは書かれていませんが、私は従っていったと思っています。なぜなら、愛することは不可能を可能に変える力を持っているからです。

 
 讃 美   新生637 Here We Stand
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏