前 奏
 招 詞   イザヤ書48章17節
 讃 美   新生  4 来りて歌え
 開会の祈り
 讃 美   新生309 輝かせ主イエスの光
 主の祈り
 讃 美   新生395 みどりの牧場
 聖 書   マルコによる福音書13章28~37節
                   (新共同訳聖書 新約P89) 

「目を覚ましていなさい」                   マルコによる福音書13章28~37節

宣教者:富田愛世牧師

【終末】

2週間前にマルコ福音書13章を読み始めた時に「13章はこの後37節まで、終末について書かれているので、続けて読んだ方が良いのかもしれませんが、礼拝の中で読むには少し長すぎるので三回に分けていこうと思っています。」と言い、三回に分け今日が最後になります。

私は続けて話していますが、皆さんは1週間あいてしまうので、前後関係のつじつまを合わせるのが大変かもしれません。そういう意味でも少しだけおさらいしながら今日の個所を読んでいこうと思います。

13章は「終末」がテーマになっていますが、マルコ福音書だけが記録しているわけではなく、他の福音書でも終末についてのイエスの言葉は記録されています。しかし、これだけまとまって記録されているのはマルコ福音書だけなので、小黙示録とも呼ばれています。

黙示録としてはヨハネの黙示録が有名で、キリスト教会だけではなく、他の新興宗教やカルトと呼ばれる宗教もヨハネの黙示録の一部分だけを切り抜いて利用したりしています。

そういった宗教ではヨハネの黙示録が意図していることとは違って、人々に恐怖を植え付けるために利用されているので注意しなければなりません。また、終末ということも一般的に語られていることと、聖書が語る終末とは違います。

一般的には、終末の時はこの世の終わりで、その後には何もなくなってしまうと考えられていますが、聖書はそんなことを語っていません。

ひとつの時の終わりであると同時に次の時の始まりなのです。そして、次の時とは完全な神の支配の時であり、キリストの来臨の時なのです。

【前ぶれ】

終末という時はいつ訪れるのかは、分かりませんが、その前触れがあるというのです。4節で弟子たちは「いつ終末が来るのか。そして、どんな徴があるのか」と尋ねました。

終末の徴として、まずメシアを名乗る者が現れるが惑わされるな。そして、戦争の噂が流れるが慌てるなと言うのです。さらに、地震や飢饉などの天変地異が起こり、クリスチャンに対する迫害が起こるというのです。また、先週の箇所では憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見るから逃げなさいと続き、私たちの想像もつかないような苦難の時がやってくるというのです。

そして、この28節以降も終末の徴について説明しています。ここではイチジクの木から学びなさいということで、自然界が、私たちに一つの季節から次の季節への移り変わりを教えているという現実から、その時の徴に気付きなさいと語るのです。

イチジクの木は冬の間、寒さに耐えじっとしていますが、春になると芽を出し、夏が近づくと葉を茂らせます。

終末とは冬のように暗く、凍えた時です。もしこの冬の時期が長く続くようならば、先週読んだ20節にあるように「だれ一人救われない」のです。しかし、神は「ご自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」と書かれているのです。

朝の来ない夜ではない。春の来ない冬でもないのです。神は私たちに耐えることのできないような試練を与えないと約束しています。コリントの信徒への手紙一10章13節に「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。

ここで試練と訳されている言葉は誘惑とも訳せる言葉で、終末の徴として偽キリストや偽預言者に惑わされないよう気を付ける必要があると語り、さらに誘惑に対しては、そこから逃げなさいと語っているのです。

終末の徴としての「時」を耐えるなら、日の光の降り注ぐ、解放の時がやってくるのです。

【目を覚ましていなさい】

そして、このような時の流れを知るため、目を覚ましていなければなりません。

「目を覚ましていなさい」という呼びかけからゲッセマネの園でのイエスの祈りを思い起こす方がいると思います。私も「目を覚ましていなさい」という言葉を聞くとゲッセマネの園での祈りを思い起こします。そして、イエスの期待に裏切り続ける弟子たちの姿と自分の姿を重ねてしまします。

テレビ番組のタイトルではありませんが、ボーッとしていたら、すぐに眠りこけてしまうのが私たちかも知れません。しかし、そんな私たちを知っていて、敢えて「目を覚ましていなさい」と語られるのです。

なぜなら、今がとても大切な時だからなのです。終末の時はまだ来ていません。しかし、今は終末が訪れる徴、前ぶれの時なのです。だから私たちは、今がどんな時なのかを見て、感じ取らなければならないのです。

34節以降には家の管理を任された僕たちの話が出てきます。主人が旅に出た後、その僕たちがそれぞれに役割を与えられ、その働きをするように命じられます。

ある者は門番を任されています。そして、門番は目を覚ましているようにと言いつけられているのです。自分に与えられている仕事なのですから、それはしなければならないものです。何も特別なことを言いつけているわけではありません。僕として当然の事をするように言われているだけのことなのです。

しかし、主人が留守だからといって、自分の為すべき働きを怠けるならば、そんな時に限って主人が帰ってくるというのです。

この人の使命は家を管理すること、そして、この家とは私たちの人生なのです。

【目的】

 私たちの人生とはどのようなものなのでしょうか。自分で切り開いていくものかもしれませんが、それだけではありません。聖書を見ていくなら、私たちの人生は神の計画の中に組み込まれているものでもあるのです。もちろん、神の計画の中に組み込まれているからといって、私たちには何もできないということではありません。

私たちに与えられている自由な意思によって、自分の人生を選び取ることが出来ます。しかし、それは長くて120年の人生なのです。

聖書は私たちに永遠の命というものを約束しています。こういう話をすると必ず、永遠の命とは何か説明しろと言われます。私には明確に説明できる知識はありません。ただ一つ分かるのは、私たちの人生は一時的なものだということです。

聖書によれば、神は人間を含む自然すべてを創られたお方です。そして、神との正しい関係の中に生まれたのですが、罪の誘惑によって、神との正しい関係を失ってしまったのです。ですから、神に創られた者は、神との正しい関係に戻ることが必要なのです。神の元に帰ることが本来の目的です。

この世の人生を終え、神の元に帰るということが死なのです。この真理を理解しないから死が恐怖になるのです。

また、神は使命のために私たちを生かしてくださいます。つまり、人生の目的です。人にはそれぞれ、その人にしかできない使命が与えられているのです。他の人が代わることのできない目的、使命があるのです。明らかに分かるような使命を持っている人もいれば、私たちの愚かな考えでは理解できないような使命をもって生まれてくる人もいるのです。

そして、その使命を全うするために、私たちも努力はしますが、それには限界があります。限界を超えたところで、神が助けてくださいます。さらに、この使命に生きる時、私たちには喜びが与えられるのです。

私に、あなたに与えられている使命とは何でしょうか。終末の徴に気付かされている今、しっかりと目を覚まして、与えられている使命に生きることが大切なのです

 
 讃 美   新生614 主よ終わりまで
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏