前 奏
 招 詞   詩編68編20~21節
 讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
 開会の祈り
 讃 美   新生 27 たたえよあがないぬしイエス
 主の祈り
 讃 美   新生554 イエスに導かれ
 聖 書   マルコによる福音書14章27~31節
                                  (新共同訳聖書 新約P92) 

「悲しい予告」                  マルコによる福音書14章27~31節

宣教者:富田愛世牧師

【わたしにつまずく】

前回の箇所で最後の晩餐が終わり、いよいよ十字架への秒読み段階というところに入ってきました。今日の27節から裁判にかけられる前の52節までは「見捨てる」ということが一つの大きなテーマとなっています。ペトロがイエスの言葉を否定し、弟子たちが見捨てることを予告され、ゲッセマネで祈るイエスが弟子たちに「一緒に祈ってくれ」と頼んだにも関わらず、眠ってしまい、祈りを共有できなかった。そして、ローマ兵に捕えられるイエスを弟子たちが見捨てて逃げてしまいます。

読んでいて、とても辛くなる箇所の連続ですが、イエスが語り、行われた福音の光を際立たせるための「影」の部分として、非常に大切な箇所となるのです。

福音において、暗い部分、今日の箇所で言うならば「つまずく」ということが、キリストの愛と哀れみの光をより引き立たせるために必要だったのです。

イエス一行は最後の晩餐を終え、オリブ山へと向かわれました。そこはイエスと弟子たちが度々祈るために行かれた場所でした。道中でイエスは「あなたがたは皆、わたしにつまずく」という否定的な言葉で話を始められました。

 つまずくという言葉は教会の中でよく耳にする言葉だと思います。「牧師につまずいた」とか「誰々さんにつまずいた」と言う方がよくいます。イエスもマルコ9章で「これらの小さな者をつまずかせてはいけない」とおっしゃったので、人をつまずかせることは良くないと思います。しかし、聖書の語る「つまずき」と私たちが普段口にする「つまずき」は違います。

私たちは自分にとって都合の悪い言葉や不快に感じる言葉に対して「つまずき」という表現を使いますが、聖書は罪を犯させること、イエスから離れさせることが「つまずき」だと語るのです。

 そのイエスがここでは「わたしにつまずく」と語られるのです。イエスにつまずく事と人につまずく事とは、根本的に違います。イエスにつまずくという事は、福音につまずく事、言い換えるなら福音を受け入れにくい、私たちの姿そのものなのです。ですからイエスにつまずかない人など一人もいないのです。そうするとペトロの否定がどれほどおごった言葉だったかということが良く理解できると思うのです。

【ガリラヤへ】

イエスは続けて、つまずいた弟子たちがイエスを失った後の様子を「散らされた羊」と表現しました。羊という動物は自主性の欠如とか判断能力に欠けていることを表しています。

羊飼いというリーダーがいれば、道に迷ったり、餌にありつけなかったりしませんが、リードする誰かがいなければ、右往左往してしまって収拾がつかなくなってしまうのです。

さらにイエスは「先にガリラヤへ行く」と語り、復活後の事を話されました。きっと弟子たちには何が話されているのか、全く分からなかったと思います。このガリラヤという地名は聖書には何回も出てくるので、皆さんもよくご存知だと思います。

エルサレムの北に位置していて、ガリラヤ湖という湖の周りの地域でした。農業と漁業が主体の町でしたが、交通の要所でもあったので、ユダヤ人だけでなく、様々な民族がいたようです。ですから、厳格で保守的なユダヤの指導者たちからするならば辺境の地だったのです。

しかし、イエスにとっては特別な場所でした。宗教的な指導者たちにとって価値のない場所が、神の選びの場所であるという事が、とても大きな意味を持っているのです。

彼らが抹殺しようとしたイエスは、死に打ち勝つ王としてガリラヤに帰られるのです。完全な価値観の転換です。右を向いていた者が左を向くようになるのです。これこそ悔い改めの出来事なのです。180度、方向転換する出来事なのです。

【つまずきません】

そんなイエスの意図に気づきもしないペトロは「他の者がつまずいても、私はつまずきません」と語るのです。ここには2つの過ちと言うか、ペトロの傲慢さが表れています。

一つ目は、「他の者が」という言葉です。他の人と比べる必要などまったくないのに、私たちはすぐに比べてしまうのです。そして「あの人よりはましかもしれない」などと勝手に思い込んで安心してしまうのです。安心するだけならまだしも、そのうちに相手を裁くようになってしまうのです。

もう一つは、イエスがつまずくと言っているのに「いいえ」と言い張るところです。クリスチャンになると、まるで罪がないかのように振る舞ってしまう人がいます。罪が赦されているという事と罪が無いという事はまったく違う事柄です。

パウロでさえ「私は罪人の頭です」と言っているのですから、私たちはなお更の事、自分の罪を認めていかなければなりません。聖書を通して神が言われた事を否定してはいけないのです。自分は大丈夫、自分だけはと豪語する者こそ、最も低い所まで落ちてしまうのです。

ただし、ここで信仰における「確信」と「思い上がり」を区別する必要が出てきます。

私は真の礼拝者となることによって信仰が整えられると確信しています。しかし、これは、私が私に与えられている様々な賜物を用いているからそうなのであって、他の人にとっては別の事柄が、その人の信仰を整えるものになるのです。

伝道の賜物が与えられている人にとっては、伝道することによって、その信仰が整えられるでしょうし、教える賜物や奉仕の賜物が与えられている人にとっては、それぞれの働きをすることによって、その人の信仰が整えられていくのです。

それを自分と同じように、他の人を当てはめてしまうなら、それはその人の思い上がりではないでしょうか。礼拝だけが、伝道することだけが、教育だけが、奉仕だけが、それぞれ信仰を整えるのだとするなら、やはりそれは間違いであり、その人の思い上がりに他ならないのです。

私にはこれが出来る、これをやっている時が一番楽しい、生き生き出来る、でも他の事をやらされる時は、いやでいやでしょうがない、そう思うのが当然です。

嫌な事が無いという人は喜びも持つことが出来ません。だから嫌な事があっていいし、嫌な事があるという恵みが与えられているのです。そして、そこに自分の弱さを見ていくことが出来るなら、さらに幸いなことなのです。嫌な事があるのが弱さではなく、嫌な事があることを否定しようとしてしまう事が弱さなのです。そして、その弱さを受け入れるなら確信が与えられるのです。

【ニワトリが鳴く前に】

 ペトロは、その思い上がりをイエスに見抜かれ「ニワトリが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました。しかし、思い上がっている人間は冷静に物事を考えられなくなっているので、さらにこの言葉を否定し「一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と答えました。

 もしかするとペトロには他の弟子たちの手前という思いがあったのかもしれませんし、一種の集団心理の恐ろしさかも知れません。表面的には勇ましい答えのように聞こえます。

しかし、このペトロの答えは、神の御心に沿った答えではなかったのです。イエスはそんな答えを望んではいなかったのです。イエスの望んでいた答えとは、どんな答えだったのでしょうか。

 聖書にはイエスの望んだ答えはこれです、という回答は載っていないので誰にも分かりません。その答えは、今、これを読んでいる私たち一人ひとりに投げかけられているのです。そして、そこには模範解答はありませんが、間違いもないと思います。

私たちはこの弟子たちのようにイエスを見捨てる一人になり得るという事を踏まえた上で、時には自分の弱さを認め、従うことの出来ない自分をさらけ出す必要があるのです。

 イエスの前に自分をさらけ出していくならば、そんな私たちを愛と哀れみを持ってイエスが受け止めてくださるのです。そんなイエスに出会う時、私たちは悔い改めへと促されるのです。

 
 讃 美   新生311 わが魂救われぬ
 主の晩餐式
 献 金   
 頌 栄   新生669 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏