前 奏
招 詞   イザヤ書26章3節
讃 美   新生 13 ほめまつれ主なる神
開会の祈り
讃 美   新生281 み座にいます小羊おば
主の祈り
讃 美   新生413 主イエスのからだ分かち
聖 書   マタイによる福音書5章9節
                 (新共同訳聖書 新約P6)

「平和に生きるために」               マタイによる福音書5章9節

宣教者:富田愛世牧師

【平和に生きるために】

8月のこの時期になると教会の中では必ずと言ってよいほど「平和」という言葉が強調され、語られます。このこと自体はとても大切な事だと思っていますが、やはり、言葉というものはとても難しく、デリケートなものだと感じさせられるのも、平和を考える時なのです。なぜなら、平和を願いながらも、自分勝手な平和の概念を主張しすぎるため、平和の名の下に人との争いが始まってしまうからです。

キリスト教は愛の宗教だと言われますが、平和の宗教と言われる宗教があるのをご存知でしょうか。イスラム教は平和の宗教と言われています。日本では一部のマスコミによる情報操作によって、平和とは程遠いように感じている人が多いかもしれません。しかし、イスラム教徒を抱えている国においては過激なイスラム教徒は少数派で、多くのイスラム教徒は平和主義者です。

噂や影響力の強い人の発言によって、その内容を調べもせずにステレオタイプ的に判断するのではなく、信用できる情報や沢山の情報を付け合わせて判断することが大切なのではないかと思います。少なくともクリスチャンと呼ばれる人にはマスコミの報道などに踊らされないでほしいと願っています。

話が少しずれてしまいましたが、イスラム教徒も、仏教徒も、キリスト教徒もみんな平和を願っています。無神論者であっても、多くの人は平和に生きたいと思っているはずです。他の人と争うのが好きだという人はほとんどいないと思っています。なのになぜ平和に生きることが難しいのでしょうか。2つの大きな理由があると思います。一つは人間の罪深さともう一つはその方法が分からないと言うことなのです。

罪深さという中には、サタンの誘惑に負けてしまっているということがあります。それは、平和に生きるためには、平和を願うことから始めなければなりませんが、そんなことを願ったとしても、たった一人の小さな人間には何もできないという、あきらめの気持ちを起こさせる誘惑なのです。マスコミの情報操作と同じように、悪魔の情報操作によって、自分には何もできないと思い込まされているのです。

 しかし、イエスが語られる平和というものは、豊かな広がりのある言葉であり、実現するもの、作り出されるものだということなのです。自然に平和になっていくのではなく、作り出さなければならないものなのです。

【平和を作る方法】

それでは、どうやって平和を作り出すのでしょうか。有史以来、何千年という歳月をかけて人類は平和を作り出す方法を考えてきました。世界中の国々や有識者たちが、その方法を考え試していますが、残念ながら、決定的な方法はまだ見つかっていないのです。また、ここにもサタンの誘惑が働いていて、平和の根本的な事柄に目を向けさせないで、大枠について考えさせようとしているのです。

本来、平和というものは、私とあなたというように、人との関係性の中で語られるべきものですが、それが難しいので、大枠である国と国、民族と民族の間の平和を考えようとしてしまうのです。そして、そういったことを考えれば、自分のことではなく、第三者の事として客観的に語ることができるので、そのほうが楽なのです。

 しかし、二千年前にイエス・キリストは正しい方法を私たちに伝えてくれました。ある意味で、イエスが祭司や律法学者たちから命を狙われた理由の一つがここにあるのです。それが福音なのです。福音とは一体何でしょうか。福音書を読んでいくと、そこにはイエスが語られた福音、イエスが行なわれた福音が記されています。

 福音とは、全ての人に目を注ぐことです。日本人は一億総中流意識というものを植え付けられ、人に目を注ぐことをないがしろにしています。貧困層はいない、見捨てられている人はいないと思い込まされているのです。

もし、貧しい人が居たとするなら、それは本人が怠けているからだと思い込まされているのです。もしかするとこれは日本に限らず世界中どこもそうだったのかもしれません。しかし、イエスはそこに注目されました。小さい者、低くされた者に目を注ぎ、彼らと共に生きることが福音だと語るのです。

 また、福音とは、この世の価値観や常識に挑戦する力でもあったのです。この世的には無意味、必要ないと思われている人々を呼び集め、彼らこそが大切な一人であると語り、そのように接しました。そこから平和を作り出そうとされたのです。だから、祭司や律法学者たちに邪魔者扱いされたのです。

【平和の範囲】

このような福音に根ざした平和は、一足飛びに世界平和とかそういうことに結びつくものではありません。もちろん結果的にはそうなっていくのかもしれませんが、まず、福音の種が蒔かれた私たちの中から、それを芽生えさせなければなりません。それは一番身近な関係の中で実行することです。

そして、その身近な関係の一つが教会という信仰共同体なのです。教会の中で、私たちはイエスが示して下さった方法を練習していかなければならないのです。ここで一つ注意しなければならないのは、教会とは完成されたものではないということです。多くの人は教会を美化しすぎて見てしまいます。ですから教会に躓いて教会から離れてしまうのです。しかし、教会とはまだまだ発展途上にあるのです。欠けだらけの信仰共同体なのです。だからこそ、ここで練習しなければならないのです。練習ですから、失敗してもいいのです。

ただ一つ残念なことは、教会の中で平和を作ろうとしている者同士が争ってしまうことです。残念な現実なのです。目的はどちらも同じ「平和」を作り出すことなのですが、その方法論が正反対だったりするのです。平和だけではありません。伝道や教会形成にも同じことが言えます。

神戸で震災があった時の話ですが、あるキリスト教の宣教団体がお弁当と聖書を一緒に配っていて、それを見た別の宣教団体の人が「押し付けがましく聖書を配ることがいいのか」と疑問に思ったそうです。ホームレス支援でも似たようなことがあります。聖書の話を聞いた人にだけ、おにぎりを配っている団体と聖書の話なんかせずに、おにぎりを配っているキリスト教の団体があるのです。

これらは、どちらが正しく、どちらが間違いということではないと思うのです。自分の立場や考え方と同じ人だけではなく、違う立場や考えの人もいて、それを受け入れ、一つの目的のために協力することが最も大切なことではないかと思うのです。

教会の中でさえ、平和を作り出すのがこんなにも難しいのですから、外で平和を作るのは、なおのこと難しいことかもしれません。しかし、あきらめてはいけないし、聖霊の助けに期待をしながら、私に出来ることを始めていかなければならないのです。

【平和の伝染】

私とあなたという一番小さな、しかも基本となる関係が一つひとつ、つなぎ合わされ、それが大きな関係へと発展していくのが社会です。国にしろ、地域共同体にしろ、全ては小さな関係性が積み重なって出来上がっているのです。

その小さな関係から始まり、少しずつ周りに影響を与えながら広がっていくのが平和だと聖書は語るのです。イエスの福音もそのように広がりました。初めはユダヤの田舎のガリラヤでたった12人の弟子を集め、神の国を語り始めました。しかし、イエスが語った神の国の福音は本物だったので、人が周りに集まってきたのです。偽善的なものならば、人々はきちんと見抜いて、すぐに消えてしまいます。しかし、本物は必ず残るのです。

また、イエスは律法主義的に平和を作れと命じているわけではありません。平和を作り出すことが、神の子に相応しい生き方だと語るのです。ここも注意しておかなければなりませんが、平和を作り出す者が神の子になるのではありません。すでに私たちはイエスの十字架の血潮によって神の子とされています。ですから、神の子に相応しい姿になるために平和を作り出すのです。

なぜなら、聖書の神は平和の神でもあるのです。イエス誕生の預言にイザヤ9章6節があります。有名なところですから、多くの人が覚えていると思いますが、その後半には「その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」とあります。イエスというお方は「平和の君」なのです。

私たちが平和に生きるためには、平和を願い求め、平和の君であるイエスの福音に従って、平和を作る者へとならなければなりません。そして、まず私たち自身の中で平和への思いを育み、教会の中でそれを行なっていくことが大切なのです。隣人との間に平和を保つことができずに、世界の平和など有り得るはずがありません。

讃 美   新生330 み使いの歌はひびけり
主の晩餐式
献 金   
頌 栄   新生671 主のみなたたえよ
祝 祷  
後 奏