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「平和をつくる者」 マルコによる福音書12章13~17節
宣教者:富田愛世牧師
【平和を実現する者】
先週は「平和に生きるために」と題してマタイ福音書5章9節を読みました。そこでイエスは「平和を実現する者は幸いです」と語られました。口語訳聖書では「平和をつくり出す人たち」と訳されていたので「平和をつくる者」という言い方の方が慣れているような気がします。
いづれにしても平和をつくる者が幸いな人で神の子と呼ばれるわけですが、この単純な言葉はとても意味深い言葉ではないかと思うのです。ここに書かれていることは、イエスにしては少し厳しい言い方かなと思うのです。なぜなら平和な時代を過ごす者が幸いなのだと語っているのではありません。また、平和な国に暮らす者でも、平和な状況にいる者でもないのです。
あなたが積極的に働きかけて平和を実現しなさい。平和をつくり出しなさいと語っているのです。それが神の子としての生きざまなのだと語っているのです。
先週から「平和」という事を一つのテーマとしていますが、そもそも「平和」とは何なのでしょうか。平和とは多様性のある言葉なので、定義することが難しいかもしれません。
平和学の父と言われるヨハン・ガルトゥングによると、平和は大きく2つに分けられるということです。一つ目は暴力や戦争がない状態を指す消極的平和(negative peace)と、もう一つは共感をもとにした協調と調和がある積極的平和(positive peace)だというのです。
今から6年前、戦争法と呼ばれる安保法案が改悪された頃、時の首相が「積極的平和主義」という言葉を本来の意味とは全く反対の意味で用いました。その影響で「積極的平和」という言葉の定義が危うくなっていますが、本来の意味は貧困・抑圧・差別などの構造的暴力がない状態を平和ととらえる考え方なのです。
このような戦争や暴力のない状態の消極的平和から、貧困、差別、抑圧などの構造的暴力のない積極的平和まで、すべてを含めて平和を実現する者、作り出す者が幸いだとイエスは語るのです。
【平和を壊す者】
平和を作り出す者、実現する者がいるとするならば、それを破壊する者もいるという事です。先ほどの平和学の父と呼ばれるヨハン・ガルトゥングは平和の対義語とは「暴力」であると定義しています。
この暴力も大きく3つに分けられるというのです。一つ目は多くの人が思い浮かべる戦争や虐待などの「直接的暴力」、二つ目は貧困など構造的なものによって不利益を引き起こしている「構造的暴力」、三つ目は弱い立場の人の抱える問題を自己責任とし、暴力を肯定する深層心理である「文化的暴力」というものがあるとしています。
具体的な例を挙げると直接的暴力とは国内や国際関係における紛争や虐殺、また、身近なところでは家庭内暴力、DVなどがあげられます。そして、構造的暴力とは貧困、飢餓、環境問題、差別、疎外、搾取など多岐に渡って見られる政治的な政策や企業倫理からくるものです。三つ目の文化的暴力とは他者への不寛容、偏見、憎悪、無関心などです。
このように見ていくと私たちの周りに平和などあるのだろうかと疑問に思ってしまうのではないでしょうか。時々、日本は平和だという人がいますが、それは「戦争がない」という一面だけのことであって、様々な「暴力」を考える時、平和とは程遠い現実の中にいるという事をあらためて思わされます。
このように定義づけして、学問として学ぶようになったのは最近のことかもしれませんが、今から二千年前のイエスの時代から同じようなことが繰り返されているのです。
イエスにとって平和を壊す、直接的暴力はローマ帝国だったでしょう。そして、構造的暴力はローマ帝国による圧力もあったと思いますが、ユダヤ教を律法主義的に解釈した祭司や律法学者たちの誤った宗教観だったのではないかと思います。
三つ目の文化的暴力にいたっては、誰?という事ではなく、私を含む、すべての人間に共通する暴力性ではないかと思わされます。そうなるとイエスの周りには平和を壊す者しかいなかったと言っても言い過ぎではないかも知れません。
そんな者たちに向かってなぜ「平和を実現する者は幸いだ」と語るのでしょうか。ただの理想論を空しく語ったのでしょうか。そんなことはないと思います。人間の本質には、そのような醜さがある。しかし、そのような者に向かって「神の子と呼ばれる」と語りかけるのです。
【イエスのスタンス】
このまま話していくと「今日の聖書はどうしたのか」という事になってしまいそうですが、マルコ福音書12章が語られている背景を思い出してほしいと思うのです。
十字架を前にしてイエス一行はエルサレムに入りました。そして、神殿の境内から商人達を追い出し、祭司、律法学者、長老たちと議論することによって、彼らの愚かさが明るみに出てしまった。そのような流れの中で、ある人たちがイエスの言葉じりをとらえ、陥れようとして、質問しているのです。
それは皇帝に税金を納めることは律法に適っているかという事でした。これは多くの人にとって身近な問題で、頭を悩ましていたと思われます。
裕福な生活をしていた人にとっては、もしかすると取るに足りない問題だったかもしれませんが、イエスの周りにいた、多くの貧しい人々にとっては死活問題でもあったでしょうし、一部の熱心なユダヤ教徒にとっては神の御心に反する行為ではないかと気をもむ出来事だったのです。
ここに書かれているテーマはまさしく、ローマ帝国との関係という政治的な問題と律法学者や祭司たちという宗教的な問題の両面を持っているのです。
イエスが向き合っていた問題とは、目の前にいる、今日を生きるのに精一杯、一生懸命な人々のことであり、彼らを食い物にしていたローマ帝国という社会問題であり、同じように彼らに精神的な圧力をかけていた宗教の問題だったのです。
預言者の時代、預言者たちは神の言葉を語っていましたが、そこには社会の不正を暴いていくという視点がありました。そのために預言者たちは迫害を受けていたのです。
現代においても教会が預言者的な視点に立ち、社会の不正を指摘すると権力者たちだけではなく、教会の内部からも反発を受けます。日本的に言えば「波風を立てるな」という優しい言葉から「時の権力者を敵に回すから教勢が伸びない」といった批判まで出てくるのです。
【神のものは神に】
イエスが祭司や律法学者たちから目の敵のように思われていたのは、律法主義的な、形骸化した宗教から人の魂に触れる宗教本来の姿に戻ろうとしたからだと思います。
そして、その表れとしてのイエスの行動は平和を作り出す、実現する行動だったのではないでしょうか。
ここでイエスはデナリオン銀貨を持ってこさせました。そして「だれの肖像と銘か」と問われました。そこに書かれていたのは皇帝の肖像と銘だったのです。つまり、その現場を支配しているのは皇帝であるという事です。
もちろん、すべてを支配しているのは神であるという事は大前提です。それはゆるぎない事実です。しかし、ここでイエスが向き合っているのは、宗教的な指導者たちです。彼らに何を伝えようとしているのかという事です。
デナリオン銀貨とは当時のローマ帝国内で流通していたコインです。そこに皇帝の肖像と銘が刻まれているという事は、その経済活動がなされている場所の支配者は皇帝だという事です。
イエスはその皇帝に税金を払うように勧めているのでしょうか。表面的に読むならばそうでしょう。しかし、イエスの側にいる貧しい人々にそんなことが出来たのでしょうか。税金を払えない、コインとは無縁な者たちばかりが側にいたと思います。
つまり、貧しい人々に向かって語っているのではなく、宗教指導者たちに向かって語っているのです。イエスは天に宝を積みなさいということをマタイ福音書6章19節以下で語っています。そこには「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とあります。
デナリオン銀貨、つまり経済やお金を大切にしていたのは宗教指導者たちだったのです。彼らの心はお金にあったのです。貪欲と搾取という暴力をこのデナリオン銀貨は象徴しているのです。
経済活動を否定しているのではありません。経済活動は大切です。しかし、経済活動の奴隷となるのではなく、そこから自由にされ、神の支配の中に生きる時、平和をつくる一人となることが出来るのではないでしょうか。
讃 美 新生515 静けき河の岸辺を 献 金 頌 栄 新生671 主のみなたたえよ 祝 祷 後 奏