前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書14章27節
讃 美   新生 13 ほめまつれ主なる神
開会の祈り
讃 美   新生332 川のように
主の祈り
讃 美   新生460 戸口の外にイエスは立ちて
平和の祈り
   神さま、私たちは昨年以来、新型コロナウイルス感染という恐れと不安の中で生活をしています。
   しかし、この時にも神さまあなたは、イエス・キリストを通して、わたしたちに、
   「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 
    門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイ7:7)」
   という希望のメッセージを与えて下さいました。
    今から76年前、私たちは、戦争によって人間が人間の「いのち」を奪い合う罪を犯したことを悔い改め、
   神さまあなたが示して下さったイエス・キリストによる十字架上の愛を受け、新たに生きることを赦された者
   です。
   私たちキリストに生きる者は、「憎しみ、差別、貧困、争い」からは平和を作り出すことはできないと信じ、
   あなたが示された平和を追い求めていきます。
    今この時、新型コロナウイルスに感染された方々、感染者の方の治療に尽くされている医療従事者の方々、
   命を支えるために働いておられる方々に対する偏見、中傷、差別があることを知っています。
   この方たちの生活と命が守られますように祈ります。
   また、コロナ禍の中、生活が困窮している方がいらっしゃることも知っています。
   私たちは、この方たちの生活と命もひとしく守られますように祈ります。
    神さまあなたはこう示して下さいました。
   「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。
    国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。(イザヤ2章4節)」
    私たちひとりひとりは弱い者かも知れません。しかし、私たちが「平和を求め、探し、門をたたき」続けれ
   ば、この祈りは必ずあなたが実現して下さると信じます。どうか私たちに祈る勇気をお与え下さい。
    この祈りを、今日この時に、いつも平和の祈りを共にしてきました市川八幡教会、花野井教会、栗ヶ沢教会
   の祈り、またそれぞれの教会にて行われている平和の祈り、そして世界の教会にて祈られている平和の祈りに
   併せてお祈りいたします。

聖 書   詩編85編9~14節
                (新共同訳聖書 旧約P922)

「平和を宣言する神」                詩編85編9~ 14節

宣教者:富田愛世牧師

【争いの原因】

今日は「平和を覚える礼拝」と位置付けて礼拝を行うことが出来、感謝しています。先ほど「平和を求めての祈り」を共にお祈りしましたが、今から76年前、私たちは戦争という人類が一番やってはいけない過ちを犯しました。その反省から日本は平和憲法と呼ばれる憲法のもとに立憲民主主義という体制の国家形成を行ってきました。

しかし、それに対して近年は戦争を知らない政治家が政治の中心を担うようになって、何かがおかしくなってきたように思えてなりません。かつて田中角栄という良くも悪くも影響力の大きな総理大臣がいましたが、この方が語った有名な言葉の一つにこのようなものがあります。

それは「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない。」というものです。私も戦争を知らない世代ですから、この言葉をきちんと捉えて戦争の愚かさを発信していかなければならないと思わされています。

先週は平和の対義語は暴力だという話をしましたが、その暴力の中でも直接的暴力と言われる争いは、なぜ起こるのでしょうか。様々な理由があげられます。

争う人が自分を正当化するためにする言い訳の多くは、自分は正義を主張しているという事です。相手の言動が社会的な道徳観や倫理観に反しているから、それを正そうとします。つまり、自分の正義に照らした場合、相手が間違っているという事です。相手が間違っているのだから、それを正してあげなければならないと思ってしまうのです。

このような思いは、小さな争いや古代の戦争には当てはまるかも知れませんが、現代の争いにはあまり当てはまらないような気がします。

もちろん、それでも争おうとする人たちは正義をかざしますが、現代において争いが起こるのは正義を隠れ蓑にした「欲」のため、特に物質欲が理由となっている事が多いのではないでしょうか。石油や鉱物資源の利権争いがその底辺に流れていたり、軍需産業と呼ばれる一部の企業による利潤追求によって引き起こされたりしていることが多いように思えます。

【欲望のルーツ】

もし、争いの原因を「欲望」とするならば、この原因を取り除くことによって争いはなくなり、平和が訪れるのでしょうか。単純に考えるとそうかもしれませんが、欲望というのは厄介なもので、人間からなくなることはないと思います。

欲望の意味を調べると「欲しがる心」とか「不足を感じて、それを満たそうとする願い」と書かれていました。欲しがるとか不足を感じるという事は、何らかの理由によって満たされていないという事です。

これらは物質的なモノであったり精神的なモノであったりするわけですが、物質的なモノについては、もしかすると満たされるという事が起こるのではないかと思います。本音かどうかは分かりませんが、年齢を重ねた人やある程度経済的に豊かな人が「今は特に欲しいモノがない」とインタビューなどに答えているのを聞くことがあります。

しかし、精神的なモノについては、それが満たされるという事はあるのでしょうか。これについては形があるわけではないので、満たされたという確信を持つことが難しいのです。

聖書に出てくる具体的な争いはカインとアベルの争いが最初ですが、この二人の争いは最悪の結果となるわけです。そして、この争いは関係性においても理由においても、深く考えさせられるものです。

関係性においては肉親同士の争いだったのですから、人間が理想として描いている家族関係というものが、実は幻想でしかなかったという事が示されているように感じます。

また、理由としてあげられるのは比較と妬みだと思います。カインは自分の捧げものとアベルの捧げものを比較し、その結果から、アベルの捧げものが勝っていたと感じたはずです。

そして、自分の捧げものは神に受け入れられなかったけれど、アベルの捧げものは神に受け入れられたということでアベルを妬むようになったわけです。この妬みの心の根底には神に対する独占欲が見え隠れしています。

このような欲望は罪の結果として、または、罪の具体的な表現として見えてくるのではないでしょうか。

【神の宣言】

詩編85編9節は「わたしは神が宣言なさるのを聞きます」と語ります。8節で「わたしたちをお救いください」と願った後、その願いに対する応答として、神が宣言してくださったという事です。

神の宣言されたことは「平和」だというのです。しかし、罪深い人間が何の縛りもなく自由奔放に振る舞う時、そこには様々な暴力性が表れてしまうという事を私たちは経験を通して知っています。

聖書に書かれている最初の具体的な争いにしても、神の目を盗んでカインがアベルを殺してしまいました。そして、神の前に最初はしらを切ろうとするのです。

これは何千年も前の出来事ではなく、今も同じようなことが起こっているわけですし、ここまで行かなくても同じような思いは私たちの心の中に、今もあるのです。

そんな罪深い人間に対して、神は宣言されているのです。なぜでしょうか。神は無責任に「宣言」されることはありません。また、ただ平和であってほしいという理想から「言ってみただけ」ではありません。

神は宣言されるのです。そして、神の宣言とは、人間の宣言とは違って必ずその通りになるのです。なぜなら、神の「ことば」には力があるからなのです。

創世記1章には天地創造の物語が記されています。初めに神は天と地を創造され、その次に「光あれ」と言われると光が現れるのです。つまり、神の言葉が実現するのです。

これは「なぜ?」という事ではなく、その言葉をもって実現させる方が「神」であるという事なのです。ですから、神が「平和」を宣言されるならば、平和が実現するという事なのです。

聖書ではそう言っているのに、私たちの現実を見る時、そこに平和が実現しているどころか、反対の暴力ばかりが渦巻いているように見えるのは何故なのでしょうか。

【主の平和】

もしかすると私たちはその結果にばかり固執しているからなのではないでしょうか。

神はイエス・キリストにおいて平和を実現されました。イエス誕生の預言として、イザヤ書9章6節に「その名は平和の君と呼ばれる」とあります。神の独り子が人としてこの世に誕生されたことによって平和が実現しているというのです。

しかし、私たちはその事実を、そのまま受け入れようとしないのです。そこでも自分たちの価値観に合わせて、理想的な救い主を求めようとしてしまうのです。イエスの十字架を信じます。と言いながら十字架の意味を理解しないのです。

詩編85編は「主は平和を宣言されます」と語ります。ここで語られる「平和」とは何なのでしょうか。それは神との正しい関係なのです。神は御自分の民に対して「愚かなふるまい」に戻らないように助け「良いもの」を与えてくださると宣言されるのです。

平和を実感することのできない理由は「愚かなふるまい」にあるのです。愚かなふるまいとは、自分の正しさを主張し、人の役に立つことを良しとし、人のために何かをしてあげる、そんな魅力的な自分に満足することではないでしょうか。

これらはもちろん良いことですが、その根底には人との比較が見え隠れしていないでしょうか。正しさを主張し、人の役に立ち、人のために何かをする自分に満足するなら、出来なかった時には、そんな自分に満足できず、ダメ出しをしてしまう。自分だけならまだいいかもしれませんが、口には出さないけれど、出来ない誰かを裁いてしまうことにならないでしょうか。

欲に支配されるような愚かさを捨て去る時、それに勝る「良いもの」を与えてくださるのです。

讃 美   新生328 全能なる主
献 金   
頌 栄   新生671 主のみなたたえよ
祝 祷  
後 奏