前 奏
招 詞   詩編100編3節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生575 栄のみ神よ
主の祈り
讃 美   新生131 イエスのみことばは
聖 書   ローマの信徒への手紙1章1~7節
                 (新共同訳聖書 新約P273)

「喜びの知らせ」                 ローマの信徒への手紙1章1~7節

宣教者:富田愛世牧師

【この福音】

前回はローマの信徒への手紙とパウロという人物について見てきました。今回からは内容について見ていきたいと思っています。

1節で自己紹介をした後2~6節はカッコでくくった部分となっていて、この手紙に込めたパウロの気持ちを簡単に説明しています。今日はこの2~6節を中心に見ていきたいと思います。

私は文学的な事について詳しくありませんが、パウロの手紙には独特の言い回しが用いられているそうです。ですから、専門家が見るとパウロの文章は一目瞭然だったようです。しかし、この2~6節においては、その独特の言い回しが一つもないそうです。

なぜなら、パウロはここで自分の言葉を捨ててさえも、当時の教会が持っていた共通の言葉を用いようとしているのです。どこの教会でも語られている言葉、礼拝の中で用いられる言葉、どのクリスチャンでも知っている言葉を使っているのです。その言葉を用いて「わたしたちの主イエス・キリスト」とは誰であるかを述べているのです。

2節のはじめに「この福音」とあります。福音という言葉の意味は「良い知らせ」「喜びのおとずれ」ということです。古代ギリシャでは、戦勝の知らせを意味していました。マラソンの起源をご存知だと思いますが、ギリシャとペルシャの戦いに勝利したギリシャ兵が戦勝の知らせを伝えるために42.195キロの道のりを走り続けて、アテネの市民に伝えました。これが「福音」でした。

パウロはこの言葉をギリシャ文化圏の人々に伝えるため、自分流にキリストの生き様、教えに当てはめて用い、初代教会の中で使われるようになった。と言われています。しかし、福音という言葉はギリシャ文化からの借り物というだけではなく、旧約聖書にもそのルーツはあります。

イザヤ書52:7には「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」とあります。その他にもサムエル下や列王記下にも「良いおとずれ」という表現が出てきます。このように「福音」と言われるものは新約においてはじめて使われた言葉ではなく、旧約聖書のなかにもその思想は脈々と流れていたと言えます。

【すでに】

2節の続きを見ると「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」とあります。この「福音」は新しいものではなく、既に神が旧約聖書の中で約束されていたものでした。

人はいつも新しいものを求めています。物質的な物であろうが、思想や論理であろうが、新しいものが出るとすぐにそれに飛びつきます。しかし、神の計画の中にあっては、本当に新しいものなど、無いに等しいのではないかと思っています。信仰や神学に関しては、ほとんどのものが既に約束され、旧約聖書などを通して語られていると思います。

この「福音」はどのような約束だったのか。それは3節にあるように「御子に関するもの」なのです。つまり、私たちの主イエス・キリストを語っています。

イエス・キリストとは「肉によればダビデの子孫」とあります。この「肉」とは単なる家系や精神に対する肉として語るのではなく、正真正銘の人を意味しています。弱さや不完全さを持つ人間を意味するのです。

イエス・キリストは人となることにより、私たちの側まで降りてきてくださいました。ですから私たちの弱さ、苦しみ、悲しみを理解してくださるのです。理解したからこそ、ヒューマニズム的な同情や上から目線の哀れみではなく、側にいる、同じ立場の人間として慰め、哀れみ、愛してくださるのです。

また、それだけでなく「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」お方です。死者からの復活。それは人間にとって究極的な恐怖、不安である、死からの解放者であり、勝利者としておられるのです。

私たち人間は死に対して、まったく無力な存在です。しかし、イエス・キリストは神の子として、死を前にしても恐れるのではなく、その死の淵にまで下られましたが、それを打ち破られました。これこそが、パウロにとって、戦勝の知らせを伝える者として映った、キリストの福音であると同時に旧約の預言者たちによって語られた、「良い知らせ」「喜びのおとずれ」の成就でした。

5節でパウロは「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」とあります。ここでパウロは「わたしたち」と複数形で語りますが、これは複数の人間を指しているのではなく、控えめにパウロが自身のことを指している表現です。

【使徒とされた】

使徒とは「他者より使信を託され、その人格を代理し、その使命を代行するために権威を委ねられ、遣わされた者」という意味です。当時の使徒と呼ばれる人々はイエスの直接の弟子たちでした。

彼らはイエスと寝食を共にし、その教えをじかに聞きました。ですから、パウロが自分を「使徒」と呼ぶことに抵抗を感じていた人々がいたようです。以前はキリストの迫害者だったのですから、そんな考えを持つ人がいても当然と言えば、当然なのです。パウロはつらい立場にいたに違いありません。

しかし、今、聖書を読んでいる私たちが、「パウロには使徒となるにふさわしい信仰があった」とか「復活のイエスに出会い、劇的な回心をしたのだから、使徒となる資格がある」などと思ったとすれば、それは大きな間違いです。

使徒とは自分からなるものではなく、他人から認められるものでもありません。「使徒とされました」とあるように、神の恵みによって選ばれたということがいちばん大切です。ここに「恵みとしての救い」「恵みとしての選び」といったパウロの一貫した神への従順が表されています。

パウロが語る従順とはこの恵みを受けることです。私たちは時々、従順に従いますと言いながら、自分の力で何事でも解決しようとしてしまいます。自分の力で解決すると言うことは「神の力なんか必要ない」と言っているのと同じことです。つまり、神の力を当てにせず、自分が神になろうとする罪なのです。

神から与えられた使命に対しては、出来るだろうかなどと考えることが、もしかするとおこがましいことなのかもしれません。神は私たちにできないことを任せることはしません。出来るから使命として与えられるのです。そして、それは特権でも何でもないのです。ただ神の計画に組み入れられているという事なのです。

【召しを受けて】

パウロが使徒として神に選ばれたのには理由がありました。それは神の計画で「異邦人への伝道」ということでした。当時はキリスト教の中にも、ユダヤ教の影響が強く残っていたので、ユダヤ教の影響を引きずっている人々の中には「ユダヤ人のようにならなければクリスチャンになれない」と思っている人も大勢いました。

指導者たちの中にもそのような思いがあったようです。選民意識と呼ばれるメンタリティーですが、これはユダヤ人に限ったことではありません。日本人にもあるでしょうし「~ファースト」などという思想の根底には民族的優位性という思想が残っているように感じます。

そのような思想に対してパウロが語ろうとするのは、神の選びが何よりも大切なものとして語られなければ「キリストの福音」の価値は失われてしまうという事ではないでしょうか。

パウロは自分自身に起こった出来事の証言者として、神に召されました。まったく救われるに値しない者、キリストの敵であった者に恵みとしての召しを与えてくださったことを従順に語り続けるだけです。

6節でローマの信徒に向け「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」と語ります。「イエス・キリストのもの」とはキリストの所有となることを意味します。

パウロを含めて、私たちはキリストの所有となるように召されたと言うのです。キリストの所有とは、キリストに全く身をささげて生きる者となることです。これは私たちが努力したり、精進して身をささげるのとは違います。

神の召しによって、そうさせられるのです。しかし、「召し」を受け入れることが本当は難しいのです。口では簡単に「受け入れます」「従います」と言いますが、実際には受け入れられないし、従えないのです。そして、そんな自分に気づいた時、私たちは暗闇のどん底に落ち込んでしまいます。そこではいくらもがいても底無し沼のように沈んでいくだけなのです。自分の無力さにあきれ果ててしまうのです。

そうなった時、はじめて心から神を求めるようになり、神の光を見ることができるのです。

讃 美   新生544 ああ嬉しわが身も
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏