前 奏
招 詞   詩篇120編1~2節
讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生523 主われを愛す
主の祈り
讃 美   新生398 みどりの牧場に
聖 書   ローマの信徒への手紙1章24~32節
                  (新共同訳聖書 新約P274)

子どもの成長を感謝する日の祈り

「自己中心の愚かさ」               ローマの信徒への手紙1章24~32節

宣教者:富田愛世牧師

【そこで】

さて、今日は24~32節までをご一緒に読んでいくわけですが、ここには、あらゆる不信心と不義のもたらす罪の報いというものが記されています。24~27節では、性生活の乱れを中心に語り、28~32節では、悪しき行為が列挙されています。

ある神学者は「悪の目録」とこの箇所に名前を付けています。しかし、ここに書かれている行為そのものが重要なのではなく、これにいたった原因が重要なことで、それを示そうとしています。

この24節は「そこで」という言葉で始まっています。口語訳では「ゆえに」新改訳では「それゆえ」と訳されています。この接続詞はどのような意味を持っているかと言うと、前に書いてある事柄があり、それが原因となって次に書いてある事柄が起こるのだということです。

つまり23節までに語られたこととして、人間は神を知りつつも、神を神として、あがめ、従わなかった。そして、自分勝手に人間や動物など、神ではないものを神とし、偶像崇拝をしている。このように人間と神との間違った関係を作ってしまった。これが原因となって「心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」たのです。

25節でも同じことを繰り返し語っています。パウロにとって人間と神との正しい関係、一言で言うなら、神を神としてあがめ、感謝することが、歪められてしまっていることが、本当に残念でならないのです。

25節の後半で突然、今までのトーンとは全く違ったことをパウロは書いています。これだけを抜き出すと、その前後に書いてある事柄とはまったく関係の無いように思われます。しかし、この言葉の中にはパウロの正直な思いが込められているように感じます。

18節から25節の前半まで、人間の罪についてパウロは書いていますが、どんな気持ちで書いていたのでしょうか。楽しい気持ちで書いたとは誰も思わないでしょう。誰かを裁こうとして書いたわけでもありません。きっとやりきれない思いで書いていたと思います。

神は何とかして人間を救おうとしてあの手この手と様々な手段を用いているのに、自分を含めて、なぜ人間はその思いに応えようとしないのだろうかと。そんな人間の罪深さを書きながら、神のことを思ったとき「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」と言わずにはおれなかったのだと思います。

【自由とルール】

26節からは、また、元に戻って人間の罪について語りはじめます。「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」ここに「まかせられました」という言葉が出てきます。24節にも「不潔なことをするにまかせられ」とあります。原文ではもう一か所28節にも同じ言葉が用いられています。

新約聖書の中では同じ言葉が、イエスの受難の時に多く使われています。そこでは「引き渡す」とか「開け渡す」というように訳されています。イエスは十字架に引き渡されましたし、イスカリオテのユダはサタンに引き渡されました。英語では Give Up という言葉に訳されています。神は人間の罪を罰する手段として、人間を罪の中に開け渡してしまわれたということなのです。

「今まで律法によって罪を教え、一人子であるイエスをこの世に送ることで罪からの救いを与えたにも係わらず、それを受け入れないのなら、どうぞ、好きなように罪の中で生活しなさい」と神は言われるよとパウロは非常に強い調子で語っているのです。

罪に引き渡されることによって、私たちは自由を得るのでしょうか。規則やルールのないことが自由だと勘違いすることがありますが、そんなことはありません。そこで得られるのは自由ではなく、滅びに向かう道であり、無秩序なのです。

神が私たちに与えてくださった秩序が「律法」であり、その土台となるのが十戒です。パウロがここで語っている罪も、十戒の第一の戒めである「わたしのほか何者をも神としてはならない」を破っているということです。十戒は人間を窮屈にして、神がご自分の都合のよいように人間を従わせるために与えられたのではありません。

私たち人間が罪を自覚するために与えられました。十戒というチェックリストに照らし合わせなければ、自分の罪に気づかないのが、私たち人間の愚かさなのです。

【自然の関係】

さらに26~27節にかけて人間の病んだ姿が語られます。男も女もお互いにその「自然の関係」を捨てて「恥ずべきこと」を行うようになったと語ります。

「自然の関係」とは何だろうか。「恥ずべきこと」とは何だろうか。ここでは、まず、人間同士の関係、男と女の関係について書かれています。創世記において神は人間を創るとき男と女に創られました。それはお互いに助け合うこと、補い合うこと、そして、愛し合う関係を築くためでした。一人ではない「相手」がいるということです。相手が必要だということです。

しかし、自然の関係というものは簡単な関係とは違います。自然の関係なのだから、何もしないでいい、何も考えず、努力もしないでいいのとは違うと思うのです。

私が一番苦手なことは、助けてもらうことと補ってもらうことです。助けてもらうためには、自分の弱さを見せなければいけません。しかし、傲慢な思いが邪魔をして、自分の弱さを出すことができません。また、補ってもらうということは、自分に足りない点がある、出来ないことがあるということを認めなければならないのです。

しかし、私は自分は完璧だ、出来ないことはないと思っているのです。それこそ、自分が神になっているのです。パウロの語る「自然の関係」を作るためには、へりくだり、神にすべてを開け渡さなければなりません。そして、私のように傲慢な者は、その関係を作ることが面倒なので「恥ずべきこと」をするようになるのです。

【恥ずべきこと】

この箇所から「恥ずべきこと」は同性愛だと主張する人々がいます。しかし、単純にそんなことを語っているとは思えません。27節には「自然の関係を捨てて、互にその情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行ない」とあります。

ここで重要なのは「その情欲を燃やし」ということではないかと思います。この情欲とは強い欲求です。「自然な関係」は自分の欲求だけで行動するのではなく、相手の気持ちを考えることですから、それを拒否して、自分のやりたいことだけ、快楽を求めるだけということが「恥ずべきこと」であって「男どうし」とか言うことは結果として出てきたことではないかと思います。

当時のローマ社会において、お互いに愛し合う関係ではなく、単純に快楽を求めるだけの性的関係を結ぶことがあったようです。相手の気持ち、お互いの気持ちを考えるのではなく、自分のことだけを考える、自己中心的な思い、それが問題となっているのです。ここに「恥ずべきこと」の原点があるのです。

神中心ではなく、自己中心になった者を神は罪に引き渡しました。自由になったと思い違いをして、秩序のない生活に入っていったのです。その結果28節にあるように「してはならないことをするようになりました。」してはならないこととは次の29節以下に書いてある、一つ一つの事柄です。

今日はこれらを一つ一つ見ていく時間がないので触れませんが、別の機会に「悪の目録」という学びをしてもいいかもしれません。しかし、最初に言ったように、ここに書いてある行為そのものが重要なのではありません。もちろんこれらの行為を無視してもいいということではありません。これにいたった原因が重要なのです。

そして、32節にあるように「このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています」とあります。この「是認」という言葉は「拍手喝采する」という意味です。

罪は罪を呼び、罪を犯す感覚が麻痺し、どんどんエスカレートしていくのです。そして、その結果が「死」なのです。これは単純に肉体の死を意味しているだけではありません。罪に対する報いとしての死です。神の怒りとしての死、肉体だけではない魂の滅びなのです。

讃 美   新生479 深い罪に悩む時
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏