前 奏
招 詞   イザヤ書55章12節
讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生151 わが心はあまつ神を
主の祈り
讃 美   新生176 主は豊かであったのに
聖 書   ルカによる福音書1章5~17節
                 (新共同訳聖書 新約P99)

「晩秋の喜び」                  ルカによる福音書1章5~17節

宣教者:富田愛世牧師

【ザカリヤとエリサベツ】

今日からアドベントに入りますので、聖書の箇所もイエスの誕生の箇所になります。ルカ福音書ではイエスの誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生の次第が書かれています。

イエスの母マリヤと父ヨセフについては、その背景はほとんど知られていませんが、バプテスマのヨハネについては、その両親について少し詳しく説明されています。5節を見ると「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリヤという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」とあります。ヨハネの父ザカリヤは祭司でした。その頃、ユダヤには2万人以上の祭司がおり、それぞれ24の組に分かれて働いていたそうです。そのうちの一つアビヤ組にゼカリヤは属していたのです。

そして、この人には一人の妻がいました。名前をエリサベトといい、この女はアロン家の娘だったのです。アロン家というのは、それこそ出エジプトの時にまで遡る事の出来る名門の祭司の家系でした。当時の祭司は純粋なユダヤ人の女とだけ、結婚が許されていました。このザカリヤは非常に正しい人だったので、その妻を純粋なユダヤ人、そして、また祭司の家系であるアロン家からめとりました。それはザカリヤがその祭司職の上に何ひとつ汚点を残さないためでした。6節には「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」とあります。言ってみれば、祭司のお手本とも言うべき人だったようです。

祭司は各組毎に、年に2回だけ、一週間、毎朝毎晩、全ユダヤ人のために、神殿の中で香を炊き、犠牲をささげる務めがありましたが、先ほど言ったように2万人以上いるのですから、毎回くじを引いて当たった者だけが、神殿の聖所に入り香をたくことができました。そして、一生のうち、一度でも、その務めに与ることができれば、それこそ最高の名誉のようなものでした。8、9節をみると「さてザカリヤは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった」とあります。たぶんその日はザカリヤにとって、一生に一度の最高の日になったのではないでしょうか。

【不幸に見えること】

ところで、ザカリヤには当時のユダヤ人社会から見て、一つだけ不幸と思われることがありました。7節をみると「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあります。

子どもがいなかったという事でした。旧約聖書において人が神の御前に正しいと認められて、祝福を与えられるには、しるしが伴うと思われていました。子どもがたくさんできるとか、財産が増えるといったようなことが、祝福だと思われていたようです。

ザカリヤがいつも神の前に正しい人であることは、みんなが認めていたのに、ただ一つだけ、子どもがいないということが、彼の心を悩ませていました。しかし、それは他人の評価であって、ザカリヤはその信仰において何の不満もなかったはずです。そんな彼らに今回のことが起こったのです。

神殿の聖所の中で香をたいている時、主の天使が来て、彼に子どもが与えられると告げるのでした。この事があと10年早く起こっていれば、ザカリヤはすぐにその言葉を、何の疑いもなく素直に受け入れ、飛び上がって喜んだと思います。

けれども、ザカリヤほどの正しい人でも、もう今となっては、その言葉を信じることが出来なかったようです。彼自身、年老いていたし、妻エリサベトも年老いていたので、子どもなど生めるはずが無いと思ったのです。

そして、子どもを望む祈りも、もうあきらめて、しなくなっていたのだと思います。人の思いがザカリヤの中にあり、常識で考えられないことは受け入れられなくなってしまったのです。

【約束された子】

しかし、そんなザカリヤの思いをよそに天使ガブリエルは生まれようとする子どもについて3つの点を語りました。

第一に、男の子が生まれる。そしてその名はヨハネと初めから決まっていました。

第二に、その子は生涯ナジル人である。ナジル人とは、神の前に誓願をたて、酒を飲まず、髪を切らないで、その身を聖別している人のことです。民数記6章に詳しく書かれています。

第三に、その子はエリヤ的な役目を持っているということでした。エリヤ的な役目とは、救い主が来る前に人々を悔い改めに導き、救い主の為に道を備える者の事です。マラキ書3章に記されています。

このザカリヤたちに起こった出来事は、旧約聖書にも似たような話がいくつか出てきます。アブラハムが息子イサクを授かった時もそうでした。アブラハムもサラも年老いていて、子どもが欲しいという祈りをしなくなった後で、神の使いが来てその約束を与えました。イスラエルがペリシテ軍の恐怖におののいている時も同じように一人のみ使いによって、サムソンが生まれました。

そして、今は救い主イエス・キリストが誕生する前に、その道を備える者として神は、この老夫婦にバプテスマのヨハネを授けると約束なさったのです。ただ普通に子どもが生まれるということだけでも素晴らしいことなのに、神は救い主イエス・キリストのために特別な役割を担う者を、この正しい祭司夫婦に与えられたのでした。

【祈りの成就】

最後にもう一つ重要な点として、神はこの出来事を通してザカリヤの祈りを叶えたという事です。それも、ザカリヤがそのことを、もうほとんど忘れかけていた時に叶えたのです。

神のなさる業は、私たちに理解できないことばかりです。ある時は、祈ってすぐにそれを叶えたり、このように忘れかけた頃に叶えたり、また、祈りをきいても別の方法で叶えてくれたり、と私たち人間の思いとは、かけ離れたものなのです。すべてが神の計画のままにだけ、行われるのです。

そして全てが必ず良い方向に向くようになっているのです。信じるということは、疑わないことなのです。そして、与えられるではなく、与えられたと確信することです。

疑いの霊が私たちの心を覆うとき、心配や不安の嵐が起こるのです。周りの状況がどうであれ、信じるのです。信じきっている心は、いつも澄み渡り、安心と喜びで満たされるのです。

ただ、神を見上げ、神の御声に耳を傾けるなら、素晴らしい約束をいただき、それが実現するのを、目の当たりにするのです。これ以上の幸いな経験があるでしょうか。

讃 美   新生514 めぐみの主は
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏