前 奏
招 詞   ホセア書6章6節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生 92 喜びたたえよ
主の祈り
讃 美   新生205 まぶねの中に
聖 書   ローマの信徒への手紙2章12~16節
                    (新共同訳聖書 新約P275)

「明らかにされる時」               ローマの信徒への手紙2章12~16節

宣教者:富田愛世牧師

【聞いた人】

アドベントからクリスマスにかけて別の聖書個所を読んでいたので、ローマの手紙には、何が書かれていたか忘れてしまったかもしれません。1章18節からの小見出しには「人類の罪」と書かれていて、2章1節には「神の正しい裁き」と書かれています。大雑把に言うと「神の怒り」が一つのテーマとなっているのです。今の計画で行くと「神の怒り」はあと4回続きますので、ぜひ忍耐を持って一緒に読んでいきたいと思っています。

この12~16節は、人が裁かれることと、義とされることについて書かれています。1章の後半では異邦人の罪と報いについて、そして、2章に入ってからはユダヤ人の罪と報いについて書かれています。

神はすべての人を分け隔てることなく見ておられます。2章11節を見ると「神は人を分け隔てなさいません」と書いてあります。しかし、ここでパウロが明確に語っていることは「律法の下にあって罪を犯した者」「律法を聞く者」と「律法を知らないで罪を犯した者」「律法を持たない異邦人」とでは、その対応の仕方が違っているということです。

まず始めに、律法の下にあって罪を犯した者、つまり、ユダヤ人に対する裁きはどうなるのでしょうか。それは、律法によって裁かれるということです。律法によって裁かれるとは、律法を守り、それを行わなければ義とは認められないということで、律法に反した「行ない」「行為」によって裁かれるというのです。

そして、義とされるためには、それを守り抜かなければならないのです。律法を守り、実行すれば義と認められます。13節に「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」とあります。多くのユダヤ人は「私は律法を知っている」と言って、自分たちだけが神に近い存在だと考えていました。しかし、それは勝手な思い込みであって、神の意思とはまったく無関係な思い込みなのです。

【知らない人】

一方、異邦人は律法を持っていないし、知りませんでした。だからと言って神の裁きを免れるわけではありません。12節の前半で「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び」とあります。ユダヤ人も異邦人も、すべての者は罪を犯しています。ここに共通点があります。それによって、滅びにむかっているというのです。

それならば、律法を知らない「異邦人」は、律法によって義とされないのだから不公平なのではないか、という疑問が起こります。しかし、そうではありません。14節に「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」とあります。

律法という明文化されたものを持っていなくても、それを知らなくても、その内容を、意図していることを同じように行為として表していれば、神によって義と認められると言うのです。

たとえば十戒の第5戒には「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めがあります。ユダヤ人はこの戒めがあるので、父と母を敬いました。しかし、ユダヤ人以外の民族は父と母を敬わないでしょうか。そんなことはありません。十戒など関係なく、人の道理として敬っているのです。

何度も語っているかもしれませんが、律法の土台は十戒です。十戒の前半の4つは神との関係ですが、後半の6つは人間生活に必要な戒めです。十戒をちょっと思い出してみてください。第1は「あなたは、わたしのほか何ものをも神としてはならない」第2は「自分のために刻んだ像を作ってはならない」第3は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」第4は「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」これが神との関係についての戒めです。第5はさっき言った「父と母を敬いなさい」第6は「殺してはならない」第7は「姦淫してはならない」第8は「盗んではならない」第9は「隣り人について偽証してはならない」第10は「隣りの家をむさぼってはならない」以上です。

前半の4つは確かに神との関係なので、ユダヤ教徒以外にとっては理解しにくいものもあります。しかし、後半の6つは、誰もが「そのとおり」と納得できるものばかりです。つまり、律法そのものが大切なのではなく、その中身が大切で、それがその人の身についていれば、それで構わないのです。

【人間の目的】

ここまで読んでいくと「行ない」が大切なように思います。もちろん絵に書いた餅のような、形だけの律法では何の意味もなく、そこに行いが伴うことによって本物になっていきます。しかし、それだけではありません。そもそも、神が人間を創られた目的は何でしょうか。それは神との正しい関係を築くためです。

神との正しい関係とは十戒の前半に書かれていることで、突き詰めれば「神を神として認める」ことに行き着きます。認めるというと何となく私たち人間が主体のように感じますが、あくまでも主体は神の側にあるので、認めるというより、気づくと言ったほうがよいかもしれません。

ここで「神」という言葉を出すと日本人には分かりやすいようで、実は曖昧になってしまう言葉のような気がします。皆さんもよくご存じのように、日本人にとって「神」とは八百万の神であって、山や木、湖や石、ありとあらゆる自然のものには神が宿っているという「汎神論」の思想を持っています。

この思想は人類最初の本格的文明として興った、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河流域のそれぞれの文明の中に共通して見られるものでした。昔からあるものが常に正しいとは限りませんが、仮に百歩譲って、すべてのものに神が宿っていたとします。しかし、そのすべてのもの自体がどのようにして出来たのでしょうか。特に生命を持つ生き物はどうして生まれたのでしょうか。それらが自然発生的に突然できたとは、私には考えられません。

進化論を土台とした科学では突然変異によって有機体、つまり、生命を持つ生命体が生まれ、進化したとしますが、同じ土台を持つ科学の分子生物学という分野では生命のない物質から生命が発生するということは、何十億年かかっても起こりえないことが証明されています。

ならば、生命の元、すべてのものには元になるものが必ずあるはずです。それをどんどんたどっていく時、最後に行き着くところがあるはずです。つまり創造の源です。聖書はそれが主なる神であると語ります。すべてのものを創られた源こそが、聖書の語る神なのです。

ですから、すべてのものに神が宿るという時の「神」と聖書が語る「神」では次元が違います。この様にすべてのものを創られた創造主としての神がいるということに気づくことが大切なことであり、そこで初めて神との正しい関係に戻ることが出来るのです。

自分を含めて、すべてのものを創られた方との関係ということを考える時、その方の前に出る時、私たちは膝をかがめて礼拝せずにはおられなくなるのではないかと思います。その御名を崇めずにはおられなくなるのではないかと思います。律法とはこの目的を示すために人間に与えられた、神からのガイドラインです。そして、十戒は明確に神の存在を示しているのです。この十戒によって神の存在を知ることができたのです。

【明らかにされる時】

パウロはここでユダヤ人と異邦人を対比させて語りますが、今、これを読んでいる私たちは、クリスチャンとそうでない人との対比として読む必要があります。これは私に対して語られている言葉であると意識し、謙虚にこの言葉を受け止めていかなければなりません。

パウロは律法を知っているかどうかが大切なことなのではなく、それを行うかどうかが大切であると語っています。同じように、私たちは福音を知っているかどうかでなく、福音を行うかどうかが大切なのです。

幸いなことに私たちには福音が伝えられました。それによって神を知り、イエスを知り、自分が罪人であることを知りました。そして、その罪から解放される方法としてイエスの十字架と復活を知り、信じることができたのです。

しかし、福音を聞いたことのない人がいます。その人たちは救われないのでしょうか。ここでその結論を言うことはできません。救われるかもしれないし、救われないかもしれない。これは私たちが判断することではなく、神の領域です。私たちは神の領域にでしゃばってはいけません。こんな話を聞いたことがあります。

海辺の村で、ある教会がキャンプをしていました。朝、牧師が早起きをして朝日を見に行ったところ、一人のお爺さんが海岸から朝日に向かって手を合わせて拝んでいたそうです。牧師はお爺さんに「朝日を拝んでいるのですか」と尋ねたところ、そのお爺さんは「朝日を拝んでいるのではなく、朝日を創った方がいるに違いないと思うので、その方を拝んでいます」と答えたそうです。牧師は創世記から話を始め、イエスの十字架と復活まで語り、そのお爺さんはその場でイエスを受け入れたということです。このお爺さんはたまたま牧師に出会い、救いの確信を得ることが出来ましたが、そうではない人もきっといるはずです。聖書や福音は知らなくても、真の神を感じている人はいるはずです。

福音を知り、バプテスマを受けてクリスチャンになりましたと言いながら、神を礼拝しない人と、福音を聞いたこともなく、教会も知らないけど、毎朝、創造主なる神を礼拝する人では、どちらが神との正しい関係を築いていると言えるのでしょうか。

パウロは福音を知っているかどうかは問題ではない、福音がその人の内に根づいているかが問題だと語ります。16節を見ると必ず裁きの時が来ると書かれています。その時、隠れた事柄を見ておられるイエスが私たちを裁かれるのです。しかし、イエスは裁く方であると同時に、私たちの最大の弁護者となり私たちの心の葛藤を理解してくださるのです。

讃 美   新生311 わが魂救われぬ
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ
祝 祷  
後 奏