前 奏
招 詞   エゼキエル書36章26節
讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
讃 美   新生207 緑も深き
主の祈り
讃 美   新生 79 ものみなたたえよ
聖 書   ローマの信徒への手紙2章17~29節
                        (新共同訳聖書 新約P275)

「内にある思い」                  ローマの信徒への手紙2章17~29節

宣教者:富田愛世牧師

【ユダヤ人】

 今日は「内にある思い」と題して、この箇所から御言葉に聞いていきたいと思います。今日の中心は29節の「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく`霊´によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」という箇所から「こころ」ということです。

 まず、17~20節においてパウロはユダヤ人とはどういう「人」かということを語っています。17節をみるとユダヤ人は自分のことを「ユダヤ人だ」と名乗るということです。

その理由は自分たちの民族だけが神によって選ばれているという自負からくるものでした。しかし、神の選びというものは、選ばれた者の自尊心をかき立てるものではなく、特別な使命が与えられるということです。多くのユダヤ人はこの事に気づかず「神の選び」という言葉に酔いしれていたようです。

 

続けて見ていくと「律法に頼り、神を誇りとし」とあります。律法に頼り、神を誇りとすること、これは素晴らしいことです。私たちも見習わなければならないことです。今のクリスチャンは余りにも律法を軽く見過ぎているような気がします。

「律法的」とか「律法主義」という言葉が悪い意味で使われ過ぎていて、律法そのものも悪いもののように思い込んでいるのかもしれません。しかし、律法は神が私たちに与えてくださった大切な規範です。ですから、軽んじることなく、律法に頼る必要があります。そして、その事は神を誇りとすることに繋がるのです。

  18節では「その御心を知り、律法によって何をなすべきかをわきまえています」と語ります。律法によって神の御心が何であるか、そして、何をすれば良いかが、分かっているというのです。その通りです。律法の土台となるモーセの十戒を読めば神の御心が分かります。何をすればよいのか一目瞭然です。このようなことを強調しすぎると「律法主義的だ」という批判を受けるかもしれません。

しかし、なぜそういう批判が出てくるか。その理由の一つに、神の御心が何であるか。何をすれば良いかが分かっているのに出来ない自分がいることへの自己弁護があるのではないでしょうか。十戒はあまりにも明確に語っているので、まぶしすぎて、直視できない。だからよそに置いておきたくなってしまうのです。

  19~20節では、このような律法を守り、神から選ばれた民だからこそ、闇の中にいる人々、無知な人々、未熟な人々を導かなければならないと自負しているというのです。

17~18節までは納得のいくことですが、ここまでくるとちょっと納得しがたくなります。「調子に乗るなよ」と言いたくなります。パウロも同じような思いを持っていたのでしょう。

【矛盾】

21~23節にかけてユダヤ人が主張することと事実上の振る舞いの間にある矛盾を指摘しています。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それはパウロがこのように語るのはパウロ自身がユダヤ人だからです。

パウロ自身がここで指摘する「矛盾すること」を行っていたということです。ですからパウロは無責任に叱責しているのでありません。

ここが私たちの陥りやすい落とし穴です。先ほどから何度も言っているように、律法は大切なものです。そして、自分の信仰生活において重要な道しるべとなります。もちろん第一はイエスですが、イエスという道しるべを明確にするための道しるべが律法です。

これは私の信仰を成長させるために与えられたものであり、他人を裁くために与えられてはいません。ユダヤ人の間違いは他人に律法を守れと語りながら、自分は律法を守らなかったということです。無責任にただ守れと語っていたのです。つまり、律法を他人を裁く道具として用いていたのです。誤った用い方をしてしまったのです。

そして、パウロは24節でイザヤ書52章5節の言葉を引用してユダヤ人の行為を断罪しています。そこにはこう書いてあります。5節の後半ですが「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる」預言者イザヤが語ったことが、今、あなた方の罪の故に成就してしまっていると語るのです。

この手紙が、誰に向けて、何のために書かれているかを思い出してください。2章に入ってからここまで、パウロは丁寧に、しつこいまでにユダヤ人の間違いを指摘しています。まだ会ったこともない、ローマにいるクリスチャンたち、特にユダヤ人クリスチャンに向けてここまで厳しいことを、なぜパウロは語ったのでしょうか。

それはこれから良い関係を築きたいからです。関係がなくなってもいいのなら、一方的に強い言葉で叱責することもできます。または沈黙していても構いません。叱責、注意、抗議、いづれにせよ、これからの関係を断つことが目的ではなく、これからも関係を続けていくならば、その後のフォローが大切です。パウロのようにその理由、今後の対処の仕方を丁寧に語ること。そして「自分は正しいが、あなたは間違っている」という立場ではなく、自分も同じ過ちを犯す一人であるという立場に立って語っていかなければならないのです。

【律法と割礼】

25節以下は律法と割礼について語ります。律法と割礼という対比を考えるとき、信仰告白とバプテスマの関係に似ているような気がします。ユダヤ人は律法によって割礼を受けることが義務づけられています。「私はユダヤ人として律法を守り、神に服従していきます」というしるしとして割礼を受け、ユダヤ人と認められます。

しかし、割礼を受けていても律法を守らなければ、それは形だけのユダヤ人で本当のユダヤ人ではありません。クリスチャンも信仰告白をすることによってクリスチャンとなります。バプテスマはそのしるしであり、イエスの体としての教会のメンバーになるための入会の儀式です。だからバプテスマを受けた人がクリスチャンなのではなく信仰を告白し続ける人が本当のクリスチャンです。

バプテスマを受けても教会につながらず、信仰を告白し続けない人は形だけのクリスチャンとなってしまいます。

【内にある思い】

今日のタイトルにもあるように「内にある思い」が大切です。内にある思いというのは「心」のことです。今の時代は「心の時代」だと言う人がいます。今といっても、もう何十年も前から言われているような気がします。少なくとも私が教会の中で、お客さんではなく積極的な働きに関わるようになった、高校生の頃から言われています。

ここで言う「心」とは、いわゆる物質文明とか唯物主義というものに対して語られるものだと思います。19世紀から20世紀にかけて、産業革命などが起こり、人類は飛躍的に発展しました。しかし、そのために様々な弊害も生まれました。

人間の利益優先、物質優先で来てしまった故に多くのものが犠牲になり、心までが犠牲になったから、その反省として今心が取り戻されているようです。

今も日曜日の朝にNHKで「こころの時代」という番組が放映されています。以前はこの番組のタイトルは宗教の時間と呼んでいたそうです。新聞でも、昔は宗教欄と呼んでいたものが、今はこころのページと呼ばれているそうです。

「宗教」という言葉を直接使うと抵抗があるけど、興味関心がないわけではない、そこで「こころ」という言葉を用いるようになったそうです。信仰とは心の問題です。頭で理解するのではなく、心に感じ、受け止めていくものなのです。

日本では、心と行いを表すとき「本音と建前」という表現を用いることがあります。何となく対立関係にある言葉に感じますが、この対比は善悪ではなく現実です。本音だけでも、建前だけでも生きていくことは難しくなってしまいます。

パウロは29節で「文字でなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」と語ります。心の割礼ですから、ある意味では心に傷を付けていくこと、心に傷を負うことなのです。

私たちは心の中に多かれ少なかれ、必ず「秘密」というものを持っていると思います。それが「本音」の一つなのです。土居健郎というカトリック信者の心理学者がいますが、この人が以前「表と裏」という本を書かれました。その中に「本音」と呼ばれる心の中には「秘密」というものが必ず存在し、これをなくすと心のバランスが崩れるといった意味のことを書いていました。

秘密もまた、善悪ではなく、現実です。秘密の部分は他人には見えず、自分だけが知っているから安心なのです。もし、秘密がばれると不安になります。そういうものが秘密です。

しかし、神はそれをもご存じです。私たちはどんな時に傷つくでしょうか。人から非難中傷を受けた時でしょうか。それもありますが、本音の部分、秘密にしていたことが暴露された時にも傷つくのです。この傷は中々癒えません。神を知るとき、私たちはこのような傷を受けます。人に秘密を知られる時、心に傷が付き、痛みが残ります。

しかし、神に秘密を知られる時、心の傷は痛みではなく、しるしが残るのです。これが「心の割礼」です。神に選ばれた者としてのしるしなのです。心の割礼とは、私たちの心を縛っている、何かから心を解き放してくれるのです。

讃 美   新生473 イエスよ心に
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ
祝 祷  
後 奏