宣教題 神の国の到来
聖書  マタイ 12:22~32

 

十年程前ですが、「不都合な真実」という映画が話題になりました。地球の温暖化に自動車や火力発電、また多くの工場などから排出される二酸化炭素が影響していることを伝えている映画です。二酸化炭素が環境に影響を与えていることが真実なら、それは、現代社会で私たちが受けている便利で快適な生活と密接に関係しているのです。つまり、真実と向き合い、それを真実と受け入れ、何らかの対応をするならば、私たちは今享受している便利で心地よい生活の中から何かしら手放さなければならない「不都合」につながります。真実だけれども、それが私たちにとってなんらかの不都合に通じるという「不都合な真実」というもは確かに存在するのではないでしょうか。

日本と周辺諸国の間で歴史をどのように理解し、受け止めるかという「歴史認識」が問題となり、国と国との緊張を生むことがあります。起きた出来事は一つであっても、それをどう受け止めるかは立場によって異なります。起きたことは一つでも、解釈は複数存在します。そして、時に私たちは解釈によって真実を隠そうとしてしまうことがあります。私たちは、自分の欲を満たしたいという気持ちから起こしてしまったことでも、仕方のなかったことだと思いたいのです。強欲な私ではなく、かわいそうな私であるほうが自分にとっては都合がよいでしょう。一つの出来事を巡って、そこにかかわる人々がそれを解釈するとき、私たちは真実を求めるよりも、自分にとって都合の良い解釈を求めてしまうことがあるのです。

今日の聖書の個所には、一つの驚くべき出来事が起こったことが記されています。それは、目が見えず、口のきけなかった人が癒されたという出来事です。彼は、見えるようになり、口が利けるようになりました。そして、その人をいやしたのはイエス様でした。これは、周囲にいる人々が目撃した否定することのできない事実でした。

この出来事が起きた時、群衆たちはイエス様のことを「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。「ダビデの子」というのは聖書にしるされ、約束されている救世主、世を救う王です。そして、それは正しい理解でした。ところが、群衆たちの言葉を聞いたファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」といいました。この時、ファリサイ派の人々とイエス様の間には厳しい緊張関係にありました。イエス様とファリサイ派の人々は度々論争し、彼らはイエス様を論破することができませんでした。そればかりでなく、彼らの偽善性やその心の根底にある差別意識などがあらわにされていったのです。信仰的なエリートであることを自認するファリサイ派の人々にとってイエス様は忌々しい存在でした。もし、イエスがダビデの子であること、つまり、聖書に予言されていた救世主であることを認めるなば、それは彼らの完全な敗北を意味していました。そしてそれは、ファリサイ派の人々一人一人にとっては、自分のそれまでの人生を否定されることでした。それは耐え難いことだったでしょう。必死に積み重ねてきた努力、自分を律する厳しさなど、彼らは確かに宗教者として立派な人生を送っていたのですから。

そこで、群衆たちの「この人はダビデの子ではないだろうか」という言葉を聞いた時、ファリサイ派の人々はすかさず、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」といったのです。イエスが悪霊を追い出すことができたのは、神の力ではなく、悪霊のかしらの力によっているのだ、と彼らは主張したのです。

悪霊につかれて、目が見えず、口がきけなかった人が癒された。その事実を否定することはできません。そして、もし、それが神の力による出来事ならば、ファリサイ派の人々にとってはそれまでの人生を否定されるような「不都合なこと」だったのです。だから彼らは、イエスの力は神からのものではなく悪霊の頭ベルゼブルから来たものだ、と言います。イエスは悪霊の僕であり、悪霊によっていろいろな奇跡を行っているのだと彼らは言うのです。

これに対してイエス様は、悪霊同士が内輪もめしたらその国は成り立たないといわれます。この出来事は、悪霊同士の内輪もめではなく、神様の力によるものだとイエス様はおっしゃいます。そして、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」といわれます。神の国、国というのは空間的な広がりだけではありません。国を治める者の力の及ぶ範囲を指す言葉でもあります。神の国は来ている、神の国はあなたたちのところに来ているのだとイエス様は言われました。神様の力によって、その主権によって一人の人がいやされたのです。

イエス様はこう言われました。「12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。聖霊は私たちの心に働きかけ、神様の救いを知らせます。聖霊は神様の救いを私たちに示します。聖霊を冒涜するというのは、救いを拒否することではないでしょうか。赦しを拒否することです。どんな罪でもゆるされる。しかし、ゆるされなくていい、とゆるしを拒否するものは、ゆるされない苦しみを背負い続けるでしょう。どのような罪を犯した者も救われるのです。しかし、救いを拒否するものは、救われない苦しみから逃れることができないのです。

神の国の到来を受け入れる、それは、神様が今、ここで働いておられることを認めることでしょう。私はイエス様を信じる信仰に入ること、バプテスマを迷っているといって相談に来られる方にこうお話しします。「今、あなたが、教会に来ていること、イエス様の救いのメッセージを聞いていることを偶然と思いますか?それとも、導かれてここにいると思われますか?」と。もし、偶然ではなく、導かれてと思われるなら、確かにそこに神様のみ力が働いている。神の国はあなたのもとに到来しているのです。

 


-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

私たちは、今偶然ここにいるのではなく、あなたの導きの中でここに集っていると信じます。あなたの導きと恵の中で生かされています。主よ、どうぞあなたの救いを拒むことがありませんように。あなたが差し出してくださっている、恵と慈愛に満ちたその御手を拒むことなく、導きの中を歩ませてください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン


-聖書-

12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」