聖書 マタイ 13:18~23   宣教題 力ある神の言葉  説教者 中田義直

イエス様は多くの譬え話を用いて人々に教えを語られました。その中には、「放蕩息子の譬え」のようにドラマティックで物語としても面白く、込められているメッセージが受け止めやすいものがあります。その一方で、たとえに込められているメッセージが受け止め難いものもあります。イエス様はあえて人々にわかりにくくしていると言われているものもあります。その真意についてはいろいろな説がありますが、「種まきの譬え」もメッセージが受け止めにくい譬えだったようです。受け止め難い理由として考えられることの一つは、「種まきの譬え」で語られていることが、当時のイスラエルの人々が日常で目にしている光景をそのまま語ったものだったという説があります。私たちが、「春になって、桜が咲いた。そして、風の強い日に桜は散ってしまった」という話を聞いたとしましょう。そこになにか深い意味があるとは思えないでしょう。それと同じように、毎年目にする種まきの光景を、教えとして語られたイエス様がそこに込めたメッセージを受け止めるのは容易ではなかったでしょう。そこで、福音書にはこの喩えについてイエス様が語られた説明が記されています。

さて、ここで、イエス様の語られた譬えの説明を聞くときに、私たちは心穏やかではいられないのではないでしょうか。果たして、私はイエス様のみ言葉をはじめ、聖書のみ言葉をしっかりと受け止め悟っているだろうか、困難に直面した時や、この世の様々な誘惑にあってみ言葉に従うことをやめてしまってはいないだろうか、と考えていくとき、私たちはとても良い地とは言えない自分自身の現実に直面するのではないでしょか。自分自身の内面をこの譬えの説明に照らして、胸を張って「私は良い地だ」と、どれほどの人が言えるでしょうか。

この譬えは私たちの御言葉に対する姿勢を厳しく問うものです。そして、それと同時にこの譬えの説明に示されていることがあります。それは、種には大きな実りをもたらす力があるということです。このイエス様の譬えの説明によれば、御国の言葉、つまり、神の言葉には豊かな実りをもたらす力が込められていると言えるでしょう。そして、私たちにはこの力ある御言葉が与えられているのです。私たちはそのことをしっかりと受け止めたいと思うのです。

使徒言行録の中に、ヨハネ・マルコという若者が登場します。彼は、パウロとバルナバと共に伝道旅行に参加したのですが、その旅行があまりに厳しかったために途中で引き返してしまったのです。そして、次の伝道旅行の時、バルナバは若いマルコを育てたいと願い再挑戦として伝道旅行に連れて行こうとしました。しかし、パウロはそれに猛反対しました。大切な伝道旅行に一度逃げ出さしてしまったような者を連れていくわけにはいかないと考えたのでしょう。そこで、パウロとバルナバは激しく対立し、バルナバはパウロと別れてマルコと共に伝道旅行に行くことになりました。パウロとバルナバの意見や願いは、どちらも正しいでしょう。どちらも正しく、しかし、相容れないということが起こるのです。そして、後のパウロの手紙の中に良き協力者としてマルコという名前ができきます。このマルコが使徒言行録に逃げ帰ってしまったと記されているマルコだと言われています。マルコはバルナバの期待に応えるように成長し、パウロの良き協力者としてパウロの伝道活動を支える者となったのです。

伝道旅行の厳しさに耐えられず逃げ帰ってしまった若き日のヨハネ・マルコは豊かな実りをもたらす良い地ではありませんでした。しかし、バルナバはヨハネ・マルコの成長に期待しました。そして、彼の魂にまかれたみ言葉という「種」に込められている力を信じたのではないでしょうか。

パウロもバルナバも、そして、ヨハネ・マルコも土の器です。パウロもバルナバも正しいと信じて行動しました。しかし、それは完ぺきな正しさではありません。ヨハネ・マルコを育てることのできないパウロの弱さ、しかし、伝道という使命を何よりも第一と考えるならばバルナバの決断に対して厳しさに欠ける弱さをを感じる人がいても不思議ではありません。そして、逃げ帰るという失態を犯したヨハネ・マルコは自分の弱さを痛いほど感じながらもバルナバに従い、伝道旅行への再挑戦に臨むのです。

同じ使命を持ちながらも、それを果たしていくための手段や進むべきルートについてパウロとバルナバは激しく対立しました。私たちの中にも、パウロの判断を支持する人もいれば、バルナバを支持する人もいるでしょう。このことは、私たちの考える正しさが、正しいけれども不完全だということをあらわしているのです。

パウロは「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(Ⅱコリント4:6~7)と記しています。私たちは土の器です。ヨハネ・マルコだけではありません。パウロも、バルナバも土の器です。しかし、その土の器を、神様は宝を納める器としてくださいました。「並外れて偉大な力」である神様のみ言葉を信じ、受け入れている私たちの心は、時には豊かな実りをもたらす良い地ですが、同じ心が時には石地のように固くなることがあります。また、油断すると茨が茂ってしまいます。けれども、ヨハネ・マルコのように根が張らず、困難につまずいてしまった者も豊かな実りをもたらす良い地とされていく、可能性があり、希望があるのです。

私たちは御言葉の力を信じ、その御言葉が豊かな実りをもたらすように、私たちの心が良い地となってゆくように聖霊の助けと導きを祈り求めてまいりましょう。

 

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたの御言葉は私たちの道を照らす光です。そして、あなたの御言葉は私たちを支え、励まして下さる力があります。そして、何よりも私たちを罪から救い、神の子としてくださる力ある言葉です。私たちには、この力ある言葉が与えられています。主よ、この与えられている力ある御言葉が豊かな実りを結ぶよう、聖霊によって私たちを整え、良い地としてくださいますように。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-

マタイによる福音書 13章18節~23節

13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」