聖書 Ⅰペトロ 2:9~10   宣教題 呼び集められた民  説教者 中田義直

 

今日はペンテコステの日曜日です。過ぎ越しの祭りから五十日目の祭りです。そして、過ぎ越しの祭りの時にイエス様は十字架によって殺され、三日目に復活なさいました。復活のイエス様は40日の間、地上におられ、たびたび弟子たちにその姿を現され、天に昇って行かれました。天に帰る前のイエス様と弟子たちのやり取りが使徒言行録に記されています。

使徒言行録の1章6節以下にこう記されています。「1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。

そして、この日から弟子たちは共に集い、祈りつつ聖霊が降る時を待っていました。その一週間後、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降りました。そして、弟子たちはイエス様の命令に従い、キリストの証人として福音を語り始めたのです。弟子たちが、福音伝道の働きを始めたこのペンテコステの日は、教会がその働きを初めた日であり、そのため、ペンテコステの日を教会の誕生日だという人もいます。

イエス様が転に帰られる時、弟子たちは「今こそ、イスラエルの国を復興するときだ」と考えていました。しかし、イエス様は聖霊が降るのを待ちなさいと言われました。それは、大切なことは、自分たちの願いや計画を実現することではなく、神様の御心を求め、神様の思いに従って歩むことだということを弟子たちに伝えようとされたのではないでしょうか。そして、そのためには助け主なる聖霊の導きが必要です。ペンテコステ、それは、イエス様の弟子たちにとって、自分の行くべき道を考えるときに、主語が自分から主なる神様に変わった日といってよいでしょう。

悔い改めという言葉があります。自分の行いが間違っていたことを知ったとき、そして、間違いを認めてその行いを悔いて、それまでとは違った自分になろうと決心することを「悔い改め」といいます。聖書の「悔い改め」にもそのような意味もあるでしょう。しかし、新約聖書が書かれたギリシャ語でこの「悔い改め」と訳されている言葉は「方向転換」という言葉なのです。ですから、違った自分になるというよりも人生の目指す方向を変えるという意味が強いのです。ペトロもパウロも、人生をかさねていく中で、喜びや楽しみ、また、つらい経験や痛みを重ねながら、一人の人間として変化したことでしょう。しかし、人間として変わらない部分も多くあったのではないでしょうか。ペトロはペトロとして、パウロはパウロとして変わらない人間だったでしょう。しかし、人生の目標、心の向かう方向が変わりました。

ペトロはこう記しました。「2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。これは、ペトロ自身の経験に立った言葉でしょう。イエス様が捕らえられた時、イエス様のことを三度知らないといったペトロに復活のイエス様はその姿を現し「平安でいなさい」と語りかけてくださいました。「主が憐れみ深い方だ」ということをペトロは身を持って体験しました。そして、ペトロは自分がイエス様の弟子であり続けられるということ、知らないと言ってペトロが断ち切ってしまったイエス様との関係をイエス様は憐れみを持って、結び合わせてくださいました。それは、ペトロの決断や意志を超えて、イエス様が結んでくださった関係であり、神様の選びによって与えられた交わりです。その思いをペトロは「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。」と語り、記しているのです。

そして、今、私たち一人一人、神様の憐れみと選びによって主に結び合わされました。そして、その一人一人を神様は聖霊の導きによって結び合わせ、教会という交わりを私たちに与えてくださいました。そして、今、私たちは、一人一人は欠けの多い不完全なものですが、聖霊の導きと助けの中で、互いに祈りあい補い合って主に託された働きを担ってゆくのです。

 

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降り、彼らは新しい人生を歩み始めました。一人一人のかけがえのない人格はそのままでしたが、彼らは人生の方向を変えました。私たちも

ありのままでイエス様に愛され、救いに導かれました。ありのまま受け入れていただいた私たちは、しかし、新しい価値観と人生の方向を与えられました。

あなたの憐れみによって救いにあずかり、あなたの招きによってキリストの体である教会の部分とされましたから、互いに祈りあい、補い合いつつ歩んでゆくことができますよう、聖霊のお導きをお与えください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー

ペトロの手紙Ⅰ 2章1節~10節

2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、

2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。

2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、

2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。