聖書 フィリピ 3:1   宣教題 キリストにある喜び  説教者 中田義直

 

今日、6月の第二日曜日は市川大野教会のファミリー感謝デーです。子どもたちと教会学校の先生方が昼食の準備をしてくださいます。子どもたちからの感謝の気持ちがそこに現されています。何よりも、子どもから大人まで、皆で楽しい時を過ごすのは素晴らしいことではないでしょうか。一緒に食事をすることの楽しみ、おいしいものを食べる楽しみ、デザートを楽しみにすること。その同じ時間の中でそれぞれが感じる楽しみは様々でも、共に笑顔の時を過ごすことができるなら、それは本当に素晴らしいことだと思うのです。そして、さらに素晴らしいことは同じ喜びを共有できることではないでしょうか。

パウロはフィリピの教会に手紙を書き送りました。この手紙の中でパウロはくりかえし、喜んでいると書き記し、喜びなさいと勧めています。まず、フィリピの教会とパウロとはとても良い関係を築いていたようです。キリストによって救われた喜びにあふれているパウロでしたが、伝道旅行には様々な困難があり、また、深刻な問題を抱えている教会からアドバイスを求められることもありました。パウロの手紙にはそのような求めに応えて、何とかしてその教会が立ち直ってくれるようにという願いを込めて書かれた手紙もあります。そして、パウロのアドバイスが喜ばれることもありましたが、反発する人々もあり、パウロに対する批判や悪口も彼の耳に入ってきたようです。パウロは弟子のペトロに胃を傷めないように、少しのブドウ酒を用いなさいとアドバイスしています。もしかしたらパウロ自身も胃の痛くなるような経験や、良く寝られない時を過ごす、そんな経験をしているのかもしれません。そのようなパウロと良好な関係を築き、パウロを支えていた教会の一つがフィリピの教会でした。パウロはそのようなフィリピ教会との交わりをとても喜んでしました。

しかし、そのようなフィリピ教会にも問題がなかったわけではありません。パウロはこの手紙の中で厳しい言葉を書いていますが、それは、外から入ってきて教会を惑わそうとする人たちを警戒しなさいという言葉です。教会だったら、どんな人でも受け入れることが大切ではないかと思います。けれども、そうとばかりはいっていられない現実もあります。ヨハネの手紙を書いた長老ヨハネは教会と敵対する人たちと交流を持たないようにと記しています。なんでそんなことを書くのだろうかといぶかしく思います。そして、その背景には未熟な教会の現実がありました。長老ヨハネは教会を自分の子どものように思って手紙を記しています。教会は全ての人に福音を伝えるつとめを担っています。しかし、まだ未熟な段階の教会、子どものような教会はその働きを担うためにも成長が必要です。パウロはフィリピの教会を心から信頼しながらも、心配もしています。そして、それはパウロの教会に対する深い愛情の表れといえるでしょう。

パウロはフィリピの教会に人々に「3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と語りかけています。ここでパウロは「同じことももう一度書きますが」と言います。それは、例えば、2章でこう記していることを指しています。「2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。パウロはここでキリストにある喜び、「主において喜ぶ」ことを語ります。イエス・キリストによって与えられた喜びと言えるでしょう。その喜びとは、無条件の赦しであり、神様に愛され、受け入れられているという喜びです。

ここでパウロは「これは私にはわずらわしいことではなく」と記しています。つまり、とても単純でシンプルなことだとパウロは言います。そして、これは人間の弱さでもあるのですが、単純でシンプルなことなので私たちは心配になったり、信じられなくなってしまうことがあります。

私たちは愛されたい、受け入れられたいと願っていますが、そのために私たちは自分で愛されるための条件をいろいろと並べ立ててしまいます。そして、そこに他者との比較や悪くすると差別感情が生まれてきます。人を見下すことで、自分の価値を確認します。パウロはかつてユダヤ教のファリサイ派の一員として、ローマ人をはじめとする異邦人を見下していました。本当の神を知らない人々、つまり、自分たちは神の民だけれども、他の神々を信じている異邦人は、神に捨てられている人々だと信じていました。そして、自分は神の民だということを確認するためにたくさんの戒律、決まり事を作ってそれを守ることに必死でした。自分に厳しく、規則正しく生きることは悪いことではありません。しかし、そのことによって人を見くだしたり差別してしまったら、神様の御心に反してしまうでしょう。

パウロは復活のイエス様と出会い、無条件の愛を知り、愛されていることの大きな喜びを知りました。そして、「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と記しているように、この喜びこそが自分自身を守るものだと気づきました。私たちは人生の中で不安を覚えることがあります。不安、恐れ、その根底にあるのは「失う」ことではないでしょうか。しかし、無条件の愛は、失われることのない愛なのです。ただ、私たちまそれを見失ったり、受け入れることができなくなってしまうのです。パウロは復活のイエス様との出会いを通して、今も、そして、その前もずっと注がれていた神様の愛に気づきました。放蕩息子が自分勝手に過ごしているときも、彼に対する父の愛は注がれ続けていました。父のもとに帰った時、彼は自分に注がれ続けていた愛に気づいたのではないでしょうか。パウロが記している、「キリストにある喜び」それは、この神様の愛に気づく喜びなのですから。

 

 

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは私たちのことを愛してくださいました。そして、独り子イエス様を世にお遣わし下さいました。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちはその愛を知ることができました。私たちに注がれているあなたの愛を知る喜び、キリストにある喜びを私たちは知っています。しかし、主よ、私たちはこの世の誘惑の中で、欲望を抑えることができなかったり、人と比べて人をうらやみ、キリストにある喜びを見失ってしまうことがあります。

主よ、私たちに聖霊を注いでください。そして、キリストにある喜び、私たちに注がれている無条件の愛を喜ぶ者としてください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー

フィリピの信徒への手紙 3章1節

3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。