聖書 マタイ 13:53~58   宣教題 信じる者の祝福    説教者 中田義直

 

イエス様が故郷であるナザレに帰られたとき、故郷の人々はイエス様のことを受け入れることができませんでした。当時、イエス様はガリラヤ地方、そして、ユダヤでも人々から強い関心を持たれていました。そして、そこには、イエス様を受け入れる人々もいれば受け入れることができない人々もいました。イエス様に人々が関心を寄せたのは、語られる教えの素晴らしさ、そして、奇跡、特に病をいやす力に対してでした。イエス様の教えを聞いた人々は、神様から語りかけられているようなそのような思いを抱いたのではないでしょうか。そして、当時の宗教的な指導者たちを論破し、神様の御心を語り、示すイエス様のことを人々は神から遣わされた預言者だと受け止めていました。そして、目覚ましい癒しの力に期待する人々もいました。重い病気にかかって苦しんでいる人、体に不自由を抱えている人々はイエス様の癒しに期待しました。そして、そのような状況にある人の家族や友人たちも同様にイエス様に期待したのです。病に苦しんでいる人々にとって、イエス様の癒やしは大きな希望でした。

一方、イエス様に激しく反対する人たちもいました。ファリサイ派や律法学者たちはイエス様の語る教えに反発するとともに、危機感を抱いていました。それは、イエス様の教えが彼らが作り上げてきた信仰上の秩序を揺さぶるものだったからです。それは、信仰の戦いであり、同時に彼らのプライドや自分たち自身の存在価値をかけた戦いでもありました。ところが、イエス様の故郷であるナザレの人たちはもっと素朴な理由でイエス様のことを受け入れることができませんでした。それは、イエスのことを子どものころから知っている、という理由です。「大工の子どもで、母親はマリア、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして、姉妹たちもこの村に住んでいる」と人々は言いました。そして、その教えからあふれてくる知恵や奇跡を起こす力はいったいどうやって手に入れたのだ、とナザレの人々は語りました。

私たちは、時として何が正しいか、間違っているかを判断するとき誰がそれを話したのか、ということを重要な判断の基準とするということがあります。誰が離したのか、どんな肩書の人が話したのか、ということで正しいか間違っているかを判断します。最近も、有力な政治家が、ある人の人格攻撃をすることで、その人の言葉を信頼性のないものだとしようとしました。一方、ある人のファンになると、その人がどんなに間違ったことを言っていても、それを正しいことと思ってしまうことがあります。敵か味方か、好きか嫌いか、心地よい言葉か、耳に痛い言葉か、ということが私たちの判断基準になってしまうのです。

ナザレの人々は、癒しをはじめとして奇跡が行われていることを知っていました。そして、イエス様が語る教えが素晴らしいものであり、知恵にあふれている言葉だということも知っていました。ところが、子どものころから知っている大工の息子が素晴らしい教えを語ったり、驚くような奇跡を起こしているということを、受け入れることができなかったのです。現実を目で見ていても、真実を耳で聞いていても、人はそれを拒否することがあります。

かつて教会は、地動説を唱えたがりれを異端だと断罪しました。そして、その裁判が間違えであったと認めたのは1992年、ガリレオの死後350年たってからでした。間違えを認めること、真実を受け入れるということは人間にとって簡単なことではないようです。

ヨハネ福音書8章にこう記されています。「8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

イエス様の弟子となったユダヤ人たちでしたが、イエス様の言葉を素直に受け入れることができませんでした。そこには、「自分たちはアブラハムの子孫だ」という自負、そして、プライドがありました。実際には、バビロン捕囚、そして、エジプトで奴隷として苦しみを受けていました。このように、アブラハムの子孫であるというプライドが、歴史さえも書き換えてしまうのです。真実よりもプライドを大切に仕様としてしまいます。真理を受け入れるとき、私たちはプライド、損得、そして、自我から解放されるのではないでしょうか。しかし、それは容易なことではありません。だから私たちには聖霊の助けが必要なのです。聖霊の助けがあるからこそ、自らの罪を受け入れ、イエス様を救い主と告白することができるのです

聖書には、「13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と記されています。知っているということ、そして、身近であるということが私たちを躓かせます。ナザレの人々はイエス様の与えてくださる喜びを受け入れることができませんでした。そして、私たちも同じ弱さを持っています。だから、聖霊の助けを祈り求めましょう。聖霊の導きの中で、プライドや自我から解放されて、しっかりと、イエス様を信じる喜びを受け止めてまいりましょう。

 

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、私たちはこの世にあって様々な誘惑にさらされています。また自分のプライドや利益にこだわり、手放すことができません。主よ、聖霊の助けをお与えください。罪を認め、あなたの救いを信じる信仰に生きることができるよう、お導きください。そして、あなたから与えられたイエス様を信じ、救いを信じる喜びを証しする者としてください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-

マタイによる福音書 13章53節~58節
13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。