聖書 マタイ 15:1~20   宣教題 本当に大切なこと  説教者 中田義直

 今日は教会学校でバベルの塔の出来事を学びました。学生のころ、私を含め語学が苦手な友人達と話をしながら、バベルの塔の話になりました。友人の一人が、恨めしそうに「神をも恐れず高い塔を造ろうとしたおかげで、俺たちは試験のたびに苦労させられている」と言いました。皆とても共感し、言葉が一つであってくれたらと思ったものです。

 確かに言葉によって、私たちは物事に対する理解の仕方や受け止め方に少なからず影響があるでしょう。たとえば、日本語は最後まで聞かないと結論が見えてきません。しかも、最後まで聞いてもイエスかノーか、はっきりわからないこともあります。イエスかノーかから始まる言葉で物を考えるのと、最後になってもイエスかノーかはっきりせずに終わってしまうこともできる言葉で物事を考えるのでは、物事に対する見方やものの言い方にもそれなりに大きな違いが出てくるでしょう。しかし、同じ言葉を使っていてもその言葉から思い浮かぶイメージや具体的な事柄が人によって異なるということがあります。

 イエス様はファリサイ派や律法学者たちと同じ言葉を用いていました。しかし、イエス様とファリサイ派や律法学者たちの考え方には大きな違いがありました。イエス様はファリサイ派の人々を不信仰だと批判しました。神様の御心をわかっていないと指摘したこともあります。一方、ファリサイ派の人々もイエス様のことを非常に批判的に見ていました。そして、ファリサイ派の人々は、彼らなりに神様の御心に従おうと一生懸命でした。律法に記されていることをしっかりと守って生活するためにはどうしたらよいかと一生懸命に考え、それを実践していたのです。そして、そのためにマニュアルを作りました。それが、ここでイエス様とファリサイ派のやり取りの中に出てくる「昔の人の言い伝え」です。

 そこには、食事の前の手の洗い方まで書かれていました。例えば、汚れた人、それは罪を犯してしまった人や、ユダヤ人以外の異邦人たちのことですが、その人たちが触ったものには汚れが移ると考えられていました。外出しているときに、異邦人が座った椅子に触れてしまったり、手に持ったものに触れたら汚れが移ると考えたのです。そして、その汚れが体の中に入らないように食事の前に手を洗うことが奨励されました。しかも、手の洗い方も儀式のように決められていたのです。ここでファリサイ派の人たちは、「昔の人の言い伝え」というマニュアル通りに手を洗っていないことを指摘したのです。この指摘に対して、イエス様は「昔の人の言い伝え」に記されていることが本当に神様の御心にかなっていることなのか、それが本当に律法を守ることなのかと問い返しています。

 イエス様はこうおっしゃっています。「そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」。ここで「父母を敬う」というのは具体的に経済的な支えをするということを意味しています。ところが「昔の人の言い伝え」では「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」、つまり、「この財産は神様に捧げることにしています」といえば、それは父母のために使わなくても良いというのです。

 この「昔の人の言い伝え」には二重の意味で問題があると言えます。第一に、「父母を敬う」ということを親に対する経済的な支援として解釈していること、第二問題点は、条件に合えば「父母を敬わなくても良い」としてしまっていることです。確かに、「敬う」ということの意味の幅は広いでしょう。クリスチャンファミリーの中で時折起こることですが、言うことを聞かない子どもに対して親が「聖書に父母を敬いなさいとあるでしょ」といって子どもを説得するのです。この場合の「敬え」ということは「親に従う」ということです。本来、敬う、敬われるというのは互いの関係の中で生まれてくることです。ですから、敬う、敬われるということは「従う」とか「金銭的な支援」ということだけでは測ることはできません。けれども「敬う」ということをこういうことですよ、決めなければなかなかマニュアルを作ることはできないでしょう。

 以前、クリスチャンのカウンセリングのセミナーで親子関係について学んだ時、参加者の方がこんなことを言っていました。「私の両親は、私が生まれて親になったとき「父母を敬え」という戒めの言葉に接して、この子が、この戒めを守ることができるよう、親としてしっかりしなければならないと思ったと話してくれました」と。実はその方のお父さんは子どものころ親子関係で悩んでいた方で「なぜ、こんな親を敬わなければならないのか」と思っていたそうです。そして、この戒めに苦しめられてきたというのです。だからこそ、自分の子どもには同じ苦しみ、悩みを抱えてほしくないと思ったというのです。人間の人間の関係は簡単ではありません。しかし、関係性の中で考えていくことが大切な「聖書の教え」もあるでしょう。

 神様の御心を求め、神様の御言葉に従って生きる。それは、神様に喜んでいただけるような人生を送りたいという願いからおこされることでしょう。きっとファリサイ派の人々もそのような願いをもって律法を学び、解釈し、昔の人からの言い伝えを大切にしてきたのでしょう。ところが、いつの間にか神様に喜んでいただくこと以上に、自分を守るため、そして、自分自身の達成感といったことが目的となってしまったのです。そういうことは良く起こります。以前、あるマンションの自治会で毎年恒例の夏祭りを継続するかどうかで議論になったそうです。規模を縮小しようとか、いろいろと議論をしましたが結局例年通りにやることになったというのです。その時、自治会長さんが役員さんに「私が会長をしているときに取りやめになった、と言われたくない」と話したそうです。「いつの間にか、何のために行うかではなく、行うことが夏祭りの目的になってしまったようだ」とその役員さんは話していたそうです。

 自分が汚れないように食事の前に手を洗う、しかし、「汚れ」とは何でしょうか。触れると取り付いて、体に入ってその人を汚すのでしょうか。確かに、律法には触れてはならないと記されています。その背景には、感染症等を防ぐといった目的があったのではないかと言われています。ところが、「汚れ」に対する意識はいつの間にか他者に対する差別感情と結びつき、自分たちは清いという選民意識を守るために、その手の洗い方も儀式的になりました。そのような状況に対して、イエス様は神様が本当に望んでおられることは何か、と問いかけておられるのです。

 イエス様は口から入るものではなく、私たちの心から出るものが人を汚すとおっしゃいます。そして、私たちを汚すものは「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」とおっしゃいます。ここに示されていることは、十戒の後半「20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。20:15 盗んではならない。20:16 隣人に関して偽証してはならない。20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」等いう戒め、隣人との関係に関する戒めを指しています。そして、これらのものは、他者の人格を傷つけること、他者の尊厳を傷つけることといえるでしょう。イエス様は、このような心のうちから出てくる「汚れ」はユダヤの民にもみられることとして語っておられます。彼らが汚れた人々という異邦人にも、選ばれた民と考えているユダヤ人にも区別なくそのような「汚れ」があるということをイエス様は示されるのです。

 人は皆、神様の前に罪人です。そして、その罪人を救うためにイエス様は世に来てくださいました。罪の赦しを与えるために世に来てくださったのです。汚れた者、清い者という区別も差別もなく、私たちは皆、罪の赦しを必要とする存在なのではないでしょうか。私たちは、手の洗い方や食べ物によって、神の子にふさわしい者になるのではありません。

 ふさわしくない者を神の子としてくださる、神様の一方的な愛と赦しによって、私たちは神の子として歩むことができるのです。自分のうちにある罪を認め、罪をゆるしてくださる神様の愛と救いを祈り求めること、そして、ただ感謝して神様の愛と赦しを信じ、受け入れること、それが私たちが神様に対してできる、本当に大切なことではないでしょうか。 

ー祈り-

 主なる神様、あなたに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、私たちはあなたと隣人の前に罪人です。しかし、私たちはこの事実を認め、受け入れることができない時があります。そして、あなたの前に自分の正しさを訴えようとします。その時、時として私たちは人を貶めたり、他者を悪く言うことで自分の正しさを主張しようとしてしまうことさえあるのです。

 私たちは皆、罪人です。しかしその罪人である私たちをあなたは愛し、赦しを与えるために御子イエス様を世にお遣わし下さいました。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というイエス様の御言葉を信じ、あなたの愛を感謝して受け入れる私たちでありますように。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  マタイによる福音書 15章1節~19節

15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」
15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」15:15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。15:17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」