聖書 マタイ 16:5~12    宣教題 気づきと信仰  説教者 中田義直 

 イエス様の弟子たちは、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われました。ところが、この言葉を聞いた「16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた」と記されています。弟子たちがパンを忘れたことをイエス様が知っておられたのかどうかは聖書に記されていません。しかし、弟子たちはイエス様の言葉を自分たちがパンを忘れてしまったことに対する叱責と受け止めたようです。もしかしたら、イエス様は怒りを含んだ厳しい言い方をしていたのかも知れません。弟子たちはイエス様の言葉を、自分たちに対する注意と受け止めました。確かに「よく注意しなさい」というのですから、注意と受け止めても不思議ではないでしょう。しかし、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」という言葉のどこにパンを忘れたことに対する注意の言葉が含まれているでしょうか。

 それでは、なぜ、弟子たちは「パンを忘れたこと」と思ったのでしょうか。きっとこの時、弟子たちはパンを忘れたことに気づいて、どうやってパンを手に入れようか、忘れたことをイエス様にどのように知らせようかと一生懸命に考えていたのではないでしょうか。つまり、彼らの頭の中は忘れてきたしまったパンのことでいっぱいだったのです。だから、イエス様の言葉の中の「パン種」という言葉が、彼らの頭の中を一杯にしていた「忘れてきたパン」と結びついてしまったのでしょう。そして、私たちもこの弟子たちと同じように、物事を見たり、聞いたりしているのではないでしょうか。そして、聖書を読む時も、自分の興味や関心、その時、心を一杯にしていることと結びつけて聖書の言葉を受け止めてしまうのです。私たちバプテスト教会で行われている教会学校の分級はそのような聖書の読み方を大切にしています。自分の生活や、心の動きや心の向いている方向をを大切にしながら聖書を読むことを「良し」としています。

 今日の聖書個所はそのような聖書の読み方に対する注意を促しています。心の中が心配事や自分の興味や関心でいっぱいになっているとそれによって、イエス様のおっしゃっていることを受け止めることができなくなってしまうことがあるからです。

 イエス様の言葉を聞いて「これは、パンを持って来なかったからだ」と話し合っている弟子たちにイエス様はこう語りかけられました。

 「16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」

 イエス様は弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と語りかけられました。そして、弟子たちが実際に経験した「五千人の給食」の出来事と「四千人の給食」の出来事を示されました。パンを忘れたこと、それは確かに弟子たちの失敗でした。そして、弟子たちは失敗したことのよってそれに伴うマイナスなことに心が向いたのでしょう。それは当然です。空腹になってしまう、それは、ともすれば命にかかわることでもあります。そして、失敗に対するイエス様の叱責を恐れたのかもしれません。しかし、彼らが経験したイエス様の奇跡は、命を支えてくださるのは神様であること、そして、そこに示された奇跡は神様が与えてくださるのは、裁きではなく「恵」だということです。パンを忘れてしまった弟子たち、パンを持っていない弟子たちの目の前にはパンを与えてくださるイエス様がおられるのです。私たちは自分の心配で心が一杯になるとき、救いと恵みを与えてくださるイエス様が目の前にいることを忘れてしまうのではないでしょうか。この時の弟子たちは、まさにそのような状態でした。

 私たちは日々の生活を通して、聖書の言葉に耳を傾けます。教会学校の分級がそのような時間であるならば、礼拝で私たちは、神様への祈り、そして、賛美を捧げて御言葉と向き合います。聖霊の導きを祈り求めながら、御言葉と向き合うのです。

 「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか」と弟子たちに言われたイエス様は、もう一度弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と語りかけられました。そして、「16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」と聖書に記されています。弟子たちはイエス様のご自身の導きの中で、恵みと救いをくださる方、イエス様が目の前におられることに気づきました。そして、この気づきを通して悟りが与えられたのです。

 私たちもまた、イエス様の導きをいただきながら、イエス様の御心をもとめつつ日々歩んでまいりましょう。

 

ー祈り-

 主なる神様、この主の日、あなたに呼び集められ、礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたの御子イエス様は私たちに赦しと恵みを与えてくださる方です。しかし、弟子たちを時に厳しく導き、イエス様を試みようとする者たちを厳しく批判なさるイエス様を思いながら、私たちはあなたを恐れてしまうことがあります。特に、失敗した時、過ちを犯してしまったとき、私たちはイエス様の教えてくださったあなたの恵みと祝福を忘れてしまいます。 主よ、私たちに聖霊を注いでください。そして、今、私たちに与えられているいあなたの恵みと祝福を忘れることの無いよう、気づきと信仰を与えてください。そして、あなたのみことばを受け止めつつ日々、歩む者としてください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書- マタイによる福音書 16章5節~12節

16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。