聖書 マタイ 17:22~23    宣教題 弟子たちの悲しみ   説教者 中田義直

 

 7年前の3月11日、私たちは今まで経験したことの無い大きな震災を経験しました。23年前の阪神淡路大震災では、明け方関西で大きな地震があったというニュースを耳にしたのですが夜が明けると共にその被害の大きさに大きな驚きを覚えました。高速道路が倒れているそのテレビの映像は今も鮮明に覚えています。そして、東日本大震災では私たちも大きな揺れに驚き深い恐怖を覚えました。何とか家族の無事を確かめる努力をしながら、教会員に連絡を取りました。都内に出かけていた一人の方の無事が確認できたのは翌日のお昼過ぎでしたが、そのようにしている間にもテレビで東北地方の様子が映し出され、町が津波に飲まれていく様子をただ茫然と見ていました。そして、原発の事故は最近の報道でも、未だ終息のめどが立っているとはとても言えません。原発の爆発、きのこ雲ともいえるテレビの映像は忘れることができません。一方、何とか被災地の方々を支えたいという国の内外に広がる支援の輪は明るい希望となりました。 (復興 岩手 70%以上 宮城 60%以上 福島 30%代の方々にとどまる) 

 大きな災害を前にして、深い悲しみが広がり、また、恐れが私たちの心の中に広がりました。愛する人、住み慣れた土地、嬉しいこととなるであろう日常の計画が一瞬にして奪われていく悲しみ。これからどうなるだろうかという恐れ、それでも何とか担っていかなければならない日々の生活や仕事と向き合いました。金曜日に起きた地震、友人の牧師たちと話をすると皆、翌日の土曜日には、日曜日の礼拝で何を語ることができるだろうかと、必死に祈りながら礼拝に備えたとその時を振り返ります。このような災害を前にして、私たちは神様の御心をどのように語ることができるのだろうか、という思いを抱かざるをえませんでした。

 震災の後、多くの方々がボランティアで被災地の支援に向かいました。そして、被災地の状況を目の当たりにして大きなショックを受けることがありました。いくつかのミッションスクールでは大学生をチームで派遣しましたが、ボランティアの作業の後、地元の牧師や教会の方々が学生さんたちと向き合い、その心に寄り添いました。そのような時にも、神様はどこにおられるのだろうか、神様がおられるならなぜこのようなことをしたのか、という思いが語られたそうです。私が出会ったクリスチャンの学生さんもそのような深い疑問を抱きながら「イエス様にすがり、イエス様に祈るほかなかった」とその時の気持ちを話してくれました。また一人の神学生の方は「あまりに激しい現実を目の当たりにして、心が押しつぶされそうになった。どう受け止めてよいかわからず苦しかった時、イエス様も一緒に苦しんでいてくれると感じました」と話してくれました。

 イエス様は再臨の日についての教えの中で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と語られました。ただ父なる神様だけがご存知だとイエス様は言われます。どうしても理解できない、大きな疑問や苦しみの前に立たされた私たちの傍らに立ってイエス様は「父なる神だけがご存知だから」とおしゃって、私たちの「わからない」という嘆き、「理解できない」といううめきを共に担ってくださるのではないでしょうか。

 今、私たちはイエス様の受難を覚える受難節の時を歩んでいます。2011年は地震の二日前、3月9日から受難節に入りました。イエス様は時の迫りを感じながら、ゲッセマネで祈られました。それは、私たちと同じように苦しみ、悲しみ、嘆く人間イエスの祈りです。

 イエス様は弟子たちにご自身の受難の予言を語られました。マタイ17章の受難の予言は二回目の予言の言葉です。最初にイエス様がご自身の受難を語られたとき、ペトロは「そんなことはおこるはずがない」と言ってイエス様をいさめました。そして、ペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責されるのです。そのような記憶がまだ鮮明だったのでしょうか、二回目の予告の言葉を聞いた時、弟子たちは言葉を発していません。聖書にはただ「弟子たちは非常に悲しんだ」とだけ記されているのです。このとき弟子たちは何を悲しんでいたのでしょうか。イエス様と別れなければならないということを悲しんだのでしょうか。しかし、この後も弟子たちはイエス様が高い地位に就くという期待を抱き続けていました。エルサレムに入る直前には、ヤコブとヨハネの母親はイエス様にこの二人の息子を高い地位につけてくれるようにと願いました。その出来事を通して、弟子たちが同じように願っていることが明らかになります。

 弟子たちの悲しみ、それは、イエス様が受難の予告をなさることを悲しく思ったのではないでしょうか。それは、厳しく言うならば、イエス様は自分たちの願いをかなえてくださらないのだろうかという「悲しみ」だったのかもしれません。そして、それはイエス様のことを理解できない、わからないという悲しみでもあったでしょう。ですから、弟子たちの「悲しみ」は神様のご計画が理解できないという「悲しみ」ということもできるでしょう。

 理解できない、わからない、だからこそ弟子たちはイエス様の言葉、すなわち「神様の救いの計画」を悲しみを持ってしか受け止めることができませんでした。私たちには、イエス様の苦しみの予告、そして、十字架の現実は悲しみと嘆きを持ってしか受け止めることができないのです。しかし、この悲しみの現実の先に神様は救いという「恵み」を用意しておられたのです。それはイエス様ご自身も「あなたの御心のままに」と委ねるほかない、苦しみの先に用意されていた救いの恵みなのです。

 私たちは、神様が備えていてくださる「豊かな恵み」を信じ、今、私たちに託されているなすべきことを担いつつ、この世の歩みを歩んでいくのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたの御子イエス様は、全き人としてこの世に来てくださいました。人として味わう苦しみ、悲しみ、嘆きを知る方としてイエス様はこの地上での人生を歩まれました。イエス様は私たち人間の弱さを憐れんでくださいます。肉体の痛み、心の痛みを知り、苦しむこと、嘆くことを知って、私たちの弱さに寄り添ってくださいます。

 主よ、私たちは自分の価値観や尺度で物事を受け止めます。また、自分自身のことばかりに心奪われて、大切なものを見落としながら、嘆いたり悲しむことがございます。そのような私たちを見捨てることなく、あなたは私たちに恵みの約束をくださり、希望を与え、救いに導いていてくださることを覚えて感謝いたします。主よ、あなたが共に歩んでいてくだあることを信じ、あなたに委ね、祈りつつ歩むことができますよう聖霊の助けをお与えください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書- マタイによる福音書 17章22節~23節

一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。