聖書 マタイ 17:22~23    宣教題 福音のために   説教者 中田義直

  先週の日曜日、私たちの教会では2018年度に向けての計画・予算総会を行いました。すでに1月の執事選挙総会で話し合いましたように、18年度の教会の主題は「主イエスに聴き、主イエスに押し出されて」そして、2018年度の聖句はローマの信徒への手紙1章16節の「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」です。

 ローマの信徒への手紙は、キリスト教会にとって、特にキリスト教とはどのような宗教なのかということを考える時に欠かすことのできない文章であると言われています。もちろん聖書の文章はどれも大切ですが、ローマの信徒への手紙は、キリスト教信仰の根幹を体系的に記しています。特にパウロの記した手紙の中では最も体系的といえるでしょう。例えば、コリントの手紙やガラテヤの手紙が教会の中で起こった具体的な問題に対するアドバイスという目的をもって書かれましたが、ローマの手紙はパウロがまた訪ねたことの無いローマの教会宛てに自分自身の信仰の理解や伝道に対する熱い思いを伝えることを目的に書いた手紙です。ですから、パウロが受け止めてる信仰理解が全体的に、そして、体系的に書かれているのです。500年前、ルターはローマの手紙に取り組むことを通して、宗教改革に押し出されていきました。そして、20世紀のヨーロッパでは大きな戦争を経験し、それまでの価値観や楽観的な未来への希望が打ち砕かれる中でカール・バルトという神学者はローマの手紙に取り組むことを通して、それ以降の教会に大きな影響を与えました。

 このローマの手紙の1章に「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」という言葉が記されています。「私を福音を恥としない」という言葉の背景には、福音を恥と考える人がいたことを示しています。福音というのは、良い知らせのことです。良い知らせを恥と思うということはちょっとおかしく思います。しかし、ここでパウロの語っている「福音」「良い知らせ」はイエス・キリストの十字架と切り離すことのできない「福音」であり「良い知らせ」です。

 十字架は当時大きな力を誇っていたローマ帝国が、帝国に歯向かう人々を見せしめにして殺すための最も残酷な処刑の道具でした。十字架にかけられて殺されるというのは、敗北者ということでした。誰もが目をそむけてくなるようなその死にざまによって、ローマは支配する属国の人々に決して同じ目には合いたくないと思わせ、抵抗する力を奪おうとしたのです。十字架にかけられた人を「救い主」「私たちの新しい王」というクリスチャンたちの考えはローマ社会の中では到底受け入れることのできない考えでした。実際、当時の教会の人々も十字架のことをあまり表に出すことをしなかったようです。ですから、十字架がキリスト教のシンボルとなるのは、四世紀に入ってから、ローマの国教となってからでした。十字架と結びつけられた良い知らせ、福音を「恥」と考えるというのは、当時の人の常識から考えれば当然のことでした。しかし、パウロはここではっきりと「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と語るのです。

 ところで、「苦難の僕(の予言)」と言われているイザヤ書53章にこう記されています。「53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。このイザヤの預言とパウロの「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」という意言葉はどこか重なるように思えます。なぜならイエス様の十字架の死は福音のためだからです。私たちに福音、良い知らせをを伝えるためにイエス様は十字架で「刺し貫かれ」「打ち砕かれ」てくださったからです。私たちが自らの罪によって、刺し貫かれ、打ち砕かれなければならなかったにもかかわらず、その痛みと苦しみをイエス様が十字架で受けてくださいました。「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とイザヤが予言したように、イエス様の十字架に「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」があらわされたのです。

 もしイエス様の十字架がなかったならば、神様から私たちに告げられたのは「裁きと滅びのメッセージ」だったのではないでしょうか。しかし、神様はその「裁きと滅び」を御子に背負わせられました。そして、神の御子イエス様が苦難の僕として歩んでくださったことにより、私たちには喜びのメッセージ「福音」が届けられました。イエス様の受難と十字架により、私たちには「裁きと滅び」ではなく「赦しと恵み」が届けられました。

 今日から受難週です。私たちに「赦しと恵み」の喜びのメッセージ「福音」を届けるためにイエス様が受難の道、十字架への道を歩んでくださったことを覚え、感謝をもってイエス様の苦しみをおぼえつつこの週を歩んでまいりましょう。

 

ー祈り-

 主なる神様、私たちは今、共に棕櫚の日曜日の礼拝を捧げています。

 主よ、あなたの御子イエス様の十字架の苦しみにより、私たちに「福音」が届けられました。イエス様の苦しみは、私たちの救いのため、私たちへの「福音」のための苦しみです。イエス様の受難により、私たちは滅びから解放されました。この尊い「恵み」への感謝を忘れることなく、今日より始まる受難雄を過ごすことができますように。

 悔い改めと感謝をもってあなたの福音を受け止め、そして、この福音を携えて福音伝道の働きに押し出されてゆくことができますよう、聖霊を注いでください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  ローマの信徒への手紙1章16節

 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。