聖書 マタイ 18:21~22   宣教題 イエス様の喜び  説教者 中田義直

 

コリントの信徒への手紙13章には有名な「愛の賛歌」が記されています。これは、イエスキリストの愛をたたえる賛美歌として当時の教会で実際に歌われていたといわれています。そして、このコリント13章の最後の部分にはこう記されています。「13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」ここには「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」とあります。私は告別式の度に、本当にこの三つのものはいつまでも残ると思うのです。この三つのものは、肉体が失われても失うことのないものではないでしょうか。肉体を離れてもこの三つのものをもって私たちは旅立つことができるのです。そして、この三つのものによって私たちは生と死を超えて、共に生きることができるのです。イエス様は地上での生涯を通して、神様が私たちといつもともにいてくださることをお示しになりました。イエス様はそのことを私たちに教え、語りかけてくださいました。信仰と希望と愛によって、神様は私たちとの関係を結んでくださいました。

聖書の示す信仰、それは、神様からの語りかけに応えることです。パウロはローマの信徒への手紙に「10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記しています。使徒たちはイエス様の呼びかけに答えて弟子となりました。旧約時代でも、アブラハムも神様の言葉に応え、信仰の歩みを始めました。創世記12章1節に「主はアブラムに言われた」と記されています。この神様の呼びかけに答えたところから、信仰の父と呼ばれたアブラハムのストーリーが始まります。そして、パウロ自身も、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける復活のイエス様の言葉に、「主よ、あなたはどなたですか」と応えたことを通してキリストの福音の伝道者へと導かれていきました。

イエス様は迷い出た羊を探し求める「迷い出た羊の譬え」をお話になりました。「18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。†18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

この譬えでは、九十九匹と一匹が対照的に語られていますが、これは単純に九十九対一という比較はできないでしょう。九十九匹は迷い出ていません。「山に残しておいて、その間に危険な目にあったらどうするのか」とこの譬えに疑問を投げかける人もいますが、13節に「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」と記されているように、九十九匹は迷い出ていません。この九十九匹は羊飼いとの関係が整えられています。羊飼いとのつながりの中に九十九匹は置かれています。しかし、迷い出た羊はこの関係から離れてしまいそうな状況にあるのです。

「こどもさんびか」の中にこの出来事を歌ったものがありますが、そこでは、一匹の羊は楽しく遊んでいて、遊びに夢中になっていつの間にか群れから離れてしまったという内容です。子ども向けの紙芝居などでも同様な物語が多いようです。そして、それは正しい解釈のように思います。迷い出た羊ははじめは自分が迷い出ていることにさえ気づいていなかったのかもしれません。そして、迷い出てしまったことの気づいた時には、自分の力ではどうしようもない状況になってしまっていたのではないでしょうか。

イエス様はこの譬えの前で「これらの小さな者」と話されています。そして、この羊の譬えは、子どもに対するイエス様の教えの関連で語られています。イエス様は「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われます。子どもは、自分の力では生きていけないことを知っています。子どもは夢中になっていると怖いもの知らずの行動に出ます。そして、迷子になってしまうこともあるでしょう。そして、自分を守ってくれる、導いてくれる大人の存在のを見失ったとき、そのような状態であることに気づくと恐ろしくなり、不安に陥って泣き出してしまうこともあるでしょう。同様に、神様との関係が失われること、それは、本当に恐ろしいこと、心細いこと、悲しいことです。イエス様は十字架の上で「わが神、わが神なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神様との関係が壊れるというのは、そのように苦しく悲痛な出来事なのです。子どものように、それは、神様を見失うことがどれほど恐ろしく、不安なことかということを知っているものではないでしょうか。

そして、羊飼いは羊が迷い出てしまったことに気づいた時、その羊を探しに出かけます。もしかしたら、羊自身はまだ迷い出てしまっていることに気づいていないかもしれません。そして、迷い出てしまったことの気づいた羊は、羊飼いの呼びかける声に気づくのです。

羊飼いであるイエス様は、迷い出た羊が呼びかける声にこたえてくれると信じ、帰ってくることへの希望をもって、羊を愛し、探し続けてくださいます。信じ、希望をもって、愛していてくださるのです。迷い出た羊を探す神様の声を受け止め、それに応えて歩む私たちでありますようにと心から願うのです。

ー祈り-

主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは聖書の言葉を通して、また日々の様々な出来事を通して語りかけていてくださいます。私たちは、あなたが正しい方であり、最善へと導いていてくださることを知っています。しかし、私たちは時として、自分の願いにとらわれ、また、自分の正しいと思うことにとらわれて、あなたの言葉や、隣人の思いを受け止められなくなってしまうことがございます。主よ、どうぞ、あなたの声を聞き分けることができますように、そして、あなたの呼びかける声に委ね、導かれて日々を歩むことができますように。

あなたの元を迷い出た者の帰ることを何よりも大きな喜びとなさるイエス様の愛を受け止めつつ、日々歩む私たちとしてください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

―聖書ー マタイによる福音書18章10節~14節

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 † 18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」