聖書 マタイ福音書 20:17~19     宣教題 死と復活の予告   牧師 中田義直

 私たちは、一生懸命に物事に取り組んでいるときに、時として目的を見失ってしまうことがあります。イエス様はファリサイ派や律法学者、祭司たちを厳しく批判しましたが、その中には、彼らが律法を厳しく守ったり、そのことを人に求める時に、何のために神様が私たちに律法を与えてくださったのかということ見失っている、つまり「律法の目的」を見失っていることに対する批判がありました。そして、この世にある者として、私たちクリスチャンも、そして教会もこのイエス様の批判をしっかりと受け止めていかなければなりません。

 昨年、2017年はルターの宗教改革から500年という節目の年でした。私たちの教会もルターの宗教改革の流れの中にある教会、いわゆるプロテスタント教会です。プロテスタントというのは「プロテストする」つまり「抗議する」という言葉から生まれています。ルターは当時のカトリック教会のありかたを批判し、95の事柄について質問し、議論することを求めました。このように批判し、議論を求めたことから「抗議する人々」、プロテスタントと呼ばれるようになりました。この時、ルターが求めたのは何かを改革して新しくするというよりも、教会が聖書のメッセージに立ち返ること、原点に立ち返ることでした。それは教会がこの世に建てられた目的に立ち返るようにとの願いでもありました。なんにために教会がこの世に存在するのか、その目的が忘れられる時、存在すること、悪く言えば自己保身が教会の目的になってしまいます。ルターが抗議するきっかけとなったのは、大聖堂のためにお金を集めることを目的に「免罪符」が売り出されたことでした。

 ルターはローマの信徒への手紙を深く学ぶことを通して、宗教改革運動に導かれました。聖書に立ち返ることを通して、イエス・キリストは何のために十字架で死なれたのか、なぜ復活したのか、そして、弟子たちに何を託し、教会が生まれたのかということを深く考え、祈りの中で立ち上がりました。

 今日の聖書の個所には、イエス様が弟子たちに語られた「死と復活の予告」が記されています。ここでイエス様が語られていること、ここに私たちの信仰の原点が刻まれています。

 『20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。

20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」』

 このイエス様の受難の予告の言葉を弟子たちは理解することができませんでした。最初にイエス様が「死と復活の予告」をなさったとき、マタイ16章に記されていますが、その言葉を聞いたペトロはイエス様をいさめました。彼はイエス様に「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と注意したのです。しかし、イエス様はペトロに向かって「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責なさったのです。ペトロは人間の価値観、この世の価値観に立ってイエス様を注意しました。「苦しめられて殺されてしまう」それは、ローマからの解放、ダビデ王朝の時のようなこの世での輝かしい栄光と繁栄を望んでいたペトロをはじめとする弟子たちには到底受け入れることのできないことでした。しかし、そのような願いは人間の願いであって、神様の御心ではないとイエス様はペトロを叱責されたのです。そして、二度目の予告をされたとき、弟子たちはただ悲しむばかりでした。(マタイ17章)

 イエス様が三度目の「死と復活の良く来」をなさったとき、マタイ福音書はそのすぐ後でヤコブとヨハネと彼らの母が来て、母はイエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったlということが記されています。彼らマまたペトロと同じように「人のこと」を思っていたのです。

 このようにイエス様のすぐそばにいた弟子たちでさえ、イエス様の御心を受け止めることができずにいました。しかし、このイエス様の言葉が現実となるという経験を通して、弟子たちは本当に大切なことを知ることになります。それは、天に積む宝です。いつまでも残る、信仰と希望と愛、の大切さ、そして、永遠の命の恵みを弟子たちは知るのです。この世の宝はそれを得ることによって失う恐れが伴います。弟子たちが望んだものも同様です。イエス様は山上の説教で「6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と教えてくださいました。

 永遠の命の恵み、それは、ただ生きながらえることができるためのではありません。そこには失うことのない、信仰と希望と愛が伴います。イエス様の弟子たちは、彼らの望んでいなかった主なるイエス様の苦難と十字架の死を通して、そして、まったく信じていなかったであろう復活の出来事を通して与えられる「永遠の命の恵み」を手に入れました。

 ご自分を裏切り、知らないと言って逃げ出してしまった弟子たちをイエス様は、信じ、希望を持ち、愛し続けてくださいました。彼らの行いは、それらを失っても仕方のない行動でした。しかし、イエス様は、愛し続け、信じ続け、希望をもって共に歩み続けてくださいました。だからこそ、弟子たちはこの喜びを語り伝えました。そして、その喜びの知らせは時を超え、空間を超え、私たちの元へも届けられました。

 私たちの教会は、この伝えられた喜びの知らせをこの地に語り伝えるために呼び集められた群れなのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 神様、あなたは私たちを呼び集め、この市川大野の地にキリストの体である教会をお建てになりました。私たちはあなたから届けられた喜びのメッセージを感謝して受け入れます。

 永遠の命の恵み、そして、失うことのない宝を天に蓄える祝福をいただきました。主よ、私たちはこの喜びをいただいて歩んでいます。そして、この地にあってキリストにある喜びを伝えたいと願っています。

 主よ、聖霊によって私たちの教会を導いてください。愛によって結び合わせ、キリストにある証を立てて日々歩む教会であり続けますよう、お導きください。 

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  マタイによる福音書 20章17節~19節

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」