「荒れ野で叫ぶ声」            マルコによる福音書1章2~8節

宣教者:富田愛世牧師

【預言者】

 1章1節で「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まったマルコ福音書は次に「預言者イザヤの書にこう書いてある」と続けます。当時の人々にとって「預言者」の言葉がいかに影響力の強いものだったのかという事をうかがい知ることができる表現だと思います。

この2~3節にかけて「預言者イザヤの書」と書かれていますが、実はイザヤ書には、このカッコ付けの言葉は出てきません。

これは出エジプト23:20にある「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」という言葉と

マラキ3:1にある「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」ともう一箇所

イザヤ40:3「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」の3つが影響しあい、結合した言葉なのです。

当時の聖書は巻物ですから、持ち運びに不便でした。そこで人々は考えて大切な箇所を抜き出した聖句集を作ったそうです。そのような聖句集にのっている言葉ではないかと想像されているのです。

ここに出てくる預言者とはイザヤという名前で出てきますが、人々のイメージする預言者はイザヤではなくエリヤという預言者でした。エリヤはメシヤ、つまり救い主が現われる前に、その道を備え、人々を悔い改めに導くことがその使命でした。

そして、その背景には、いつの日か、必ず神がイスラエルという神の国を復興してくださる時が来るという待望の信仰があったのです。

【バプテスマのヨハネ】

そのようなイスラエルの前に現われたのが、バプテスマのヨハネだったのです。バプテスマのヨハネはルカ福音書の1章を見ると分かるようにザカリヤとエリサベツの間に生まれた子どもで、ザカリヤは祭司をしていたわけですから、祭司の子として生まれたわけです。また、エリサベツとマリヤは親戚関係だったことが書かれてあり、マリヤがイエスを身ごもった時、エリサベツのところへ行き3ヶ月ほど滞在したと言うことから、かなり親しい関係だったと思われます。そういうところから、イエスとバプテスマのヨハネは従兄弟だといわれていますが、どのような関係かはハッキリしません。

さて6節以降を見ると分かるように、バプテスマのヨハネは「らくだの毛ごろもを着」「革の帯を締め」「イナゴと野蜜を食べていた」という事ですから、見るからに、いかにも預言者といった身なりをしていて、生活スタイルもThe預言者という生活をしていたという事なのです。

よく「人を外見で判断してはいけない」と言いますが、そんな風に外見で判断しない人は、ほとんどいません。私を含めて、たいていの人は、まず外見で判断してしまうのです。この人はきっとこういう人だ、と決めて、先入観を持って人との接触を始めるのではないかと思います。

ヨハネは外見も預言者らしい姿をしていましたし、その生活スタイルも人里離れた、荒野で生活していたのですから、何となく修行僧のように見えたと思います。俗の人間ではなく、聖なる部類に属する人間と思われていたのです。

そして、その語る言葉もまた、預言者にふさわしいものでした。ルカ福音書3章を見ると「マムシの子らよ」と群衆に語りかけ、罪の悔い改めを迫っているのです。

仮に私がこんなことを言ったとしても、誰も見向きもしないと思います。他の有名な牧師に比べるなら、よっぽど分かりやすい話をしていると思うし、厳しい裁きの言葉なんか言わないのに、誰も見向きもしないのですから、このヨハネみたいな事を言ったら、教会に来ている人までいなくなってしまうのではないかと心配してしまいます。

しかし、神から遣わされた者だからでしょうか。ヨハネには不思議な魅力があったようで、ユダヤ全土から人々が集まり、ヨハネのバプテスマを受けに来たと書かれているのです。

【水のバプテスマ】

ヨハネが語る言葉は、人々を悔い改めに導く、力強い言葉でした。ユダヤ全土から人々が集まり、バプテスマを授けて欲しいと頼みに来るのですから、私のようなお調子者だったならば、有頂天になって、まるで自分が何様かのように勘違いして、振る舞ってしまうのではないかと思うのです。しかし、ヨハネはハッキリと自分の分というものを心得ていました。

7節の途中から「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と語っているのです。後から来る救い主、イエスに比べるならば、私には何の価値もないと、へりくだっているのです。

さらに8節では「わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」と語るのです。

水のバプテスマとは悔い改めのバプテスマです。悔い改めることは非常に大切なことです。私たちの生活は、日々、悔い改めの連続であるべきだと思っています。

しかし、悔い改めは救いの条件ではありません。本来、悔い改めという言葉は方向転換するという意味を持っていました。ですから、私たちの生活を罪の生活から、方向転換して、罪のない生活に改めることです。

しかし、人間の力によって、生活を変えることなどできません。順番から行くならば、聖霊によって罪を赦していただき、義とされた者が、結果として悔い改めて、方向転換して義の道を歩むことができるようになるのです。悔い改めとは、罪を赦された者の行為であると受け止めていかなければならないのです。

【聖霊のバプテスマ】

ヨハネは「優れた方」が来られると語りますが、この「優れた」という言葉は口語訳聖書や新改訳聖書では「力ある方」と訳されていました。この力とは罪を赦す力です。ヨハネを代表とする人間には、罪を赦す力はありません。

しかし、これから来る、優れた方は聖霊によってバプテスマをお授けになると宣言するのです。そのお方がイエスであるということです。

しかし、実際に福音書を読み進んで行ってもイエスがバプテスマをお授けになったという記事は出てきません。どこを読んでもイエスからバプテスマを授けられた人の報告はないのです。なぜでしょうか。それは、この言葉がバプテスマという行為を指す言葉ではないからなのです。

行為としてのバプテスマではなく、その働き、意味を示していると受け止めていくことが大切なのではないかと思います。

聖霊のバプテスマとは、神の子にしか与えられていない、罪を赦す権威を象徴するものです。そしてイエスにはこの権威が与えられている。だから、ヨハネはこのイエスのために道を備える者となり、徹底してへりくだり、イエスを前面に押し出そうとしていくのです。

今、私たちはバプテスマのヨハネのように、浮世離れした生活を送ったり、特別な選びの中にいたりはしないのかもしれません。しかし、先に罪を赦され、救いに入れられた者として、イエスが約束された再臨に備えて、その道備えをする者となる事ができれば幸いです。