「誘惑」               マルコによる福音書1章12~13節

宣教者:富田愛世牧師

【荒野に追いやった】

 今日はイエスが悪魔の誘惑に遭われるという有名な箇所ですが、これはマタイにもルカにも同じ話が記されています。3つの福音書に書かれているということから分かるように、とても重要な出来事だということなのです。なぜ重要なのかというと、一つには前後関係から見ていただくと分かるように、この誘惑に遭われたのは、イエスがバプテスマを受けて、すぐ後だったということです。

 皆さんは自分自身の信仰生活をふり返った時、どんな時に誘惑に遭っていると思いますか?信仰が弱っていたり、気持ちが落ち込んでいたりする時に誘惑に遭うような気がします。しかし、現実はそうではないということが、この箇所から分かるのです。

イエスはバプテスマを受け、聖霊に満たされ、さらに神から「あなたはわたしの愛する子」と宣言されたのです。ですから、信仰的に一番燃えている時だったと思います。多分、多くの人はバプテスマを受けたすぐ後は、信仰的に燃えていて、周りの人々に証ししたり、教会の集会にも休まず出席したり、聖書を読んだり祈ったりすることも定期的に続けて、それこそ、クリスチャンの模範のような生活をしていたのではないかと思います。そんな時は、悪魔の誘惑なんて自分には無関係だと思ってしまうのです。

しかし、現実を見ていくならば、そんなことないのです。そう思い込んでいるだけで、実際には、そのように信仰的に燃えていると思う時にこそ、様々な誘惑が襲ってくるのです。悪魔は神に背いている人を見ると安心します。そこには悪魔の仕事はないのです。反対に神に従う人を見ると、その人を神から遠ざけようとして誘惑するのです。これが悪魔のやり方、悪魔の仕事なのです。

そして、ここでは聖霊がイエスを「追いやった」のです。悪魔が向こうからやってきて、誘惑するのではなく、聖霊が私たちを誘惑へと追い立てるのです。なぜそんなことをするのでしょうか。それは、そこに厳しい現実があるということです。神には人を誘惑から遠ざける力があります。しかし、あえてそうされないのです。それは、誘惑に打ち勝つことによって私たちが成長することを知っておられるからなのです。

【誘惑とは】

教会では誘惑を受けることが罪であるような言い方がされます。誘惑を受けないように、誘惑を避けるようにということがよく言われます。本当にそうなのでしょうか。

高校生の頃、ある宣教団体の指導者から「大学生になってサークルに入ると、必ずコンパがあって酒を飲みに連れて行かれるから、サークルには入らないほうがいい。誘惑から離れなさい」と助言をもらいました。その頃の私は信仰的に非常に従順だったので、その言葉を守ってサークルに入らず、コンパの誘いがあっても断っていました。そして、学内伝道をするんだと意気込んでいたのです。しかし、周りの人たちはサークルやコンパで知り合った人と友だちになって、結果的には親しい友達ができず、学内伝道なんて出来ませんでした。

誘惑を遠ざけることが大切なのではなく、誘惑に遭った時にどのように対処するかという知恵をつけることが大切なのではないかと思わされるのです。

また、誘惑というものは、それ自体が罪なのではありません。誘惑というものは、すべての人の上に降り注いでくる事柄です。ですから罪ではないのです。ただ降り注いでくる誘惑に負けてしまうことによって、罪を犯してしまうという現実があるのです。ある意味で誘惑の一つの結果なのです。一つの結果であって、すべての結果ではありません。なぜならば、神は誘惑を許されますが、それは人を罪に誘うことではないからです。

人を罪へと誘うことではないというのなら、誘惑とはどういうことでしょうか。ここで用いられている言葉は厳密に訳すならば、テストするという意味の強い言葉なのだそうです。テストという言葉も、あまり私たちにとって好きになれる言葉ではありませんが、何のためにテストをするのでしょうか。

それは、人をふるいにかけて落とすためではありません。本来は伝えようとしていたことが、伝わったかどうかを試すためなのです。ですから、テストに通らなかったということは、どこが分からなかったかが、ハッキリすることで好ましいことなのです。分からないことが分かったならば、それを学び直せばいいだけの話なのです。

【獣もいた】

また、この箇所は誘惑だけでなく、様々な事柄に対するクリスチャンの間違ったイメージを訂正しようとしています。それは「荒野」と「獣」とについてです。

どうでしょうか?「荒野」と聞くと、否定的なイメージを持つことの方が多いと思いませんか。神の国や天国をイメージする時、出てくるのは緑の牧場であって、決して荒野ではないと思います。もちろん預言者は荒野に住んでいるイメージがありますが、荒野に住むものは悪霊であるとか、蛇とか獣といった反キリスト的なものをイメージすることが多いのです。

しかし、福音書を見ていくと、イエスが忙しい合間をぬって、神の声を聞くために退かれたのは「荒野」だったのです。荒野という非日常的な場所においてイエスは真剣に神の声を求めて祈られたのです。ですから、荒野というのは神にお会いすることのできる場所であったということが出来るのです。

また、獣というのも悪いイメージを持っているのではないかと思います。今も荒野に住むのは蛇や獣だと言いましたが、マイナスイメージの中でそれを捉えているので、人に不安を与える存在であったり、人を襲う存在であったりという反キリスト的な見方をするのです。

獣という言葉は聖書の中253回出てきますが、反キリストとして出てくるのはダニエル書に11回、黙示録に31回だけで、他は神によって創造された被造物の一つとして登場するのです。

また、クリスマスによく読まれる箇所でイザヤ書11章の有名な言葉がありますが、11章6~8節を読むと

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」

とあるのです。これは神の国の有様を現わしています。そして、イエスが荒野で誘惑に遭っている時「獣もそこにいたが」となっています。そこにいたが邪魔をしたわけではありません。まさにこれはイザヤ書11章にある神の国をイエスご自身が体験されたということなのです。

【誘惑に勝る神の護り】

今、私たちの住んでいる社会は荒野のようにすさんでいるのかもしれません。人との競争の中にあり、他人を見たら敵と思えなどと、大人が平気で子どもに教えています。人と人との関係が上手くいかず、争いが絶えません。人と人だけではなく、民族と民族、文化と文化、宗教と宗教、国と国が争っています。また、様々な誘惑に満ち溢れています。

しかし、それはキリストによる救いの希望や確信を持たない人々の見方なのではないかと思うのです。荒野や獣が反キリスト的なものではないということは説明しましたが、一般的なイメージはそうではありません。一般的なイメージでは否定的な場所なのです。しかし、荒野にいても御使いはイエスに仕えていました。同じように、私たちにも神の護りというものがあるのです。

苦しみや辛さの中にある時は、どうしてもその問題にばかり気をとられてしまいます。誘惑を受けている時も同じように、誘惑という事柄にばかり気をとられてしまうのです。しかし、私たちがもっと広い視野を持っていくならば、問題の先にあるもの、誘惑を乗り越えた先にあるものを発見することが出来るのです。

そこにあるものとはキリストにある希望なのです。イエスでさえ、誘惑に遭われたのです。この先読み進んでいくとたくさんの問題に悩まされているのです。神の子なのだから誘惑や問題を取り除くことが出来るだろうと思います。しかし、そうされなかった、それは私たちと共に歩んでくださるためだったのです。私たちの苦しみを、思いを分かち合うために、あえて同じ道を歩まれたのです。

神は私たちがイエスのようになりたいと願っても、なれないことを初めからご存知です。だから様々な方法で助けてくださるのです。護ってくださるのです。初めから神にすべてを明け渡すことは出来ません。少しずつで構わないのです。明け渡せるところ、自分では手に負えないことを一つ、今日、神の前にゆだねてみませんか?