「イエスの招き」            マルコによる福音書1章16~20節

宣教者:富田愛世牧師

【4人の弟子】

 前回お読みした14~15節で、バプテスマのヨハネが捕らえられ、イエスがガリラヤで宣教活動を始められるという新しい時代が始まったことが明らかになりました。マタイ福音書やルカ福音書も同じようにガリラヤ地方で活動を始めたと記しています。

効率的に福音を伝えるならば、中心地であるエルサレムで活動したほうが良かったかもしれませんが、イエスは敢えて、ガリラヤという辺境の地を選び、そこで活動を始められるのです。これらのことは、すべて新しい福音の時代が始まったことを意味しているのです。

4つの福音書を比較しながら読んでいくと、弟子の召命物語が若干違っていることに気づきます。ヨハネ福音書ではバプテスマのヨハネの弟子が二人、イエスについていきます。その一人がアンデレで彼はイエスに出会ってから、すぐに兄であるシモンをイエスの所に連れて行くのです。マタイはマルコとほとんど同じですが、ルカを見るならば、シモンとアンデレはイエスに従う前に、すでに面識があったような書き方がされています。

どれも間違いではありませんが、それぞれ強調点が違っているのだと思います。そして、今日の中心になるマルコ福音書ではガリラヤでの宣教活動が開始され、すぐに4人の弟子が選ばれているのです。ここにはマルコの意図があるのです。それを考えながら、今日の箇所を見ていきたいと思います。

この最初の4人の弟子達はみんなガリラヤの漁師でした。私たちはこの4人を十把一からげにして考えがちですが、マルコはわざわざ2組の特徴を書き記しているのです。

シモンとアンデレは網を打っているところをイエスに見つけられ「わたしについて来なさい」と声をかけられ「網を捨てて」イエスに従うのです。そして、ヤコブとヨハネは「舟の中で網の手入れ」をしているところを見つけられ、同じように声をかけられます。そして、この二人は「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」イエスに従うのです。

明らかにこの二組は、違うものを捨てているのです。つまり、同じ漁師でも貧しい、雇われ漁師と裕福な網元の漁師だったと言うことです。

このように初めから、同じような人を弟子として選ばれたのではなく、違う人たちを弟子として選んでおられるということは、福音の深い真理だということなのです。

【イエスとの出会い】

次に今も話しましたが、イエスがどのように、この4人に出会っているかということも、とても興味深いことなのです。シモンとアンデレは「網を打っている」ところでイエスに出会っています。そして、ヤコブとヨハネは「舟の中で網の手入れ」をしているところでイエスに出会っているのです。

どうでしょうか?皆さんは神と出会う場所はどのような所だと思われますか。チョット変な話ですが、私は中学生の頃、よく学校で悪い事をしました。そして、そのたびに親が呼び出されて、普通の人の何倍も3者面談をしました。はじめの頃は、学校で怒られ、家に帰ってからも怒られ、ということだけで済んでいたのですが、なかなか直らないので、そのうち、礼拝堂に連れて行かれて「神様の前で祈って反省しろ」と言われるようになりました。学校や親に対する反抗から悪いことをしていたので、先生に怒られても、親に怒られても別に応えませんでしたが、さすがに「神様の前で」と言われるとかなりきついものがありました。

多くの人は宗教的な雰囲気のある所でなければ、神と出会うことができないと思っています。礼拝をはじめとする教会の諸集会や個人的な祈りの時、一人で静まって神を求めようとしている時でなければ、神に出会えないと思い込んでいます。しかし、そのような考え方は律法の時代までの考え方なのです。

新しい福音の時代、イエスの時代に入ったならば、日常の生活の中で神に出会うことが出来るということをイエスは教えてくださっているのです。

漁師にとっては、網を打ったり、網の手入れをしたりという作業は日常的な作業です。今日、食べていくために、そして、明日、食べ続けていくために、なくてはならない日常的な作業をしていたのです。そして、その作業をしている所にイエスがお出でくださったのです。これはとても重要なことです。

宗教的雰囲気というものは、人間が勝手に作り出すものです。しかし、聖書の語る神はそんな所に納まるような小さなお方ではありません。もっともっと大きなお方で、人間が考える宗教的雰囲気にとどまらず、あらゆる場所、日常生活すべてに関わっておられ、共にいてくださるお方だということなのです。

【イエスの言葉】

次にイエスが語られた言葉を見てみたいと思うのです。イエスはご自分のほうから弟子たちに近づかれ、そして、彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられました。この言葉に違和感を覚えませんか。信じてもいないのに弟子にするというのです。

15節の言葉を見るなら「悔い改めて福音を信じなさい」という語りかけがあって、それに対して「お言葉通り、悔い改めます。そして福音を信じます」と答えなければならないような気がしてしまいますが、どうでしょうか。

また、救いという言葉から考えるならば、私たちにとって何か足りないものや事柄があって、その必要を満たしてくれたり、何か悩みや傷を抱えていて、それらを解決してくれたり、癒してくれたりすることが先にあって、私たちが満足することによって、はじめて神に従いますと応えていくことが出来るような気がします。

しかし、最初のこの4人の弟子たちの召命に関しては、何も彼らの気持ちや必要を満たすものはありませんでした。さらに、救われたとか、何とかいうこともなく、ましてや信仰告白さえしていないのです。それでいて、最初から働き人として召されているのです。順番が違うのではないかと思われるでしょう。

しかし、ここにも律法の時代が終わり、福音の時代がやって来たという証拠があるのです。形ではなく、本質が大切だということです。また、ここに神の国の王としてのイエスの権威というものが現わされているのです。

しかし、この権威は、上に立つ者が高圧的に下々に対して命令するようなものではありません。この世の権威といわれるものの多くは、支配従属の関係性の中で、否応なく従わざるを得ない状況を作り出しているように思えますが、イエスの権威というものは、この世の権威とは全く質の違う権威だったのです。

1章22節に「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあるように、とって付けたようなものではなく、自然な流れの中で、神の子だけが持つ権威というものを現わしているのです。

【4人の行動】

イエスの言葉によってシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はすべてを捨てて従います。なぜでしょうか。非常に不思議な反応だと私には思えるのです。桃太郎のお話でさえ、キビ団子がもらえるのに、ここでは何の約束もないのです。敢えて言えば「人間をとる漁師にしよう」という、これまた分かりにくい言葉だけなのです。

一番初めに言ったように、この時すでにイエスは様々なところで福音を語っていたはずです。そして、イエスの周りには、すでに福音を耳にして、イエスに従いたいと思う人もいたはずです。

しかし、イエスはそのような「求めてくる」群衆ではなく、かえって、福音を気にも留めていなかったような漁師たちを選んだのです。実に不思議なことの連続です。しかし、そこにイエスの、そして神の計画があったということは、紛れもない事実なのです。

この4人と、イエスの周りにいたであろう群衆にはどんな違いがあったのでしょうか。敢えて言うならば、この4人の心は宗教的なことに関しては、全くの白紙だったと言うことが出来ると思うのです。

イエスが群衆に語る時、多くの場合、湖の岸や舟で少し行ったところで群衆に語っていたわけですから、この4人にも聞こえていたと思うのです。でも関心を示しませんでした。彼らにとって宗教とは律法学者や祭司たちが語る、堅苦しい、つまらない話だったのです。浮世離れして、腹の足しにはならない話だったのです。

そんな彼らだったから、イエスに声をかけられ、イエスの姿を個人的に見て、言葉を聞いたからこそ、従うことが出来たのではないかと思うのです。そして、彼らにとっては、ただ信じることや気持ちが満たされるというより、衝撃を持って聞いた福音の証人となること、つまり、受け身ではなく、福音を用いる者となる事に魅力を感じたのではないかと思うのです。

イエスが律法学者の中から弟子を選ばなかったということは、宗教的には非常識な行為でした。しかし、イエスの語る福音は宗教という枠を超えた、人の生き方そのものだったのです。喜び、怒り、哀しみ、すべての感情を持ったまま、そのままの姿で招きに応えていくことをイエスは望んでおられるのです。