「休んでますか?」             マルコ福音書1章29~39節

宣教者:富田愛世牧師

【いやし】

 今日の個所は前回からの続きで、イエスが4人の弟子を選ばれてから、カファルナウムにやってきました。そして、安息日になったので、会堂に入って教えられたのです。

前回は、この教えが律法学者たちのようではなく、権威ある者のような教えで、人々が驚き、また、悪霊に取りつかれた人が、イエスの力によって、悪霊から解放されたという記事を読みました。マルコ福音書におけるイエスの最初の奇跡が悪霊を追い出すということだったのです。

 今日の箇所は、その後の出来事です。会堂を出られてからイエス一行はシモンの家に行かれました。何をしに行ったのかは何も書かれていないので分かりませんが、そこに待っていたのは、何だったのでしょうか。

ここにもまたイエスの癒しを必要としている人がいたのです。30節を見ると「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので」と書かれているのです。

 この少し前で、シモンは仕事を捨て、イエスに従う決心をし、イエスに従っています。もしかするとシモンにとっては帰りにくかったかも知れませんし、平気で行き来していたかも知れません。その辺は分かりませんが、結果的にはイエスの提案で一行はシモンの家に行ったように読み取れます。

このイエスの行動というものは、いろんな意味で回復させるという事と、必要としている人の所へ導かれていく、運ばれていくという事なのです。

 私たちが病の癒しということを考える時、その病を抱えている人が癒されたいのか、どうなのかということに注目します。別の箇所ではイエスご自身も「いやされたいのか」と質問する場面もありますから、このように考えることは間違いではありません。

しかし、イエスの眼差しということを考えていくならば、それは条件が満たされた時に起こる出来事ではなく、必要としている人の所へ、運ばれていく働きなのです。

イエスの働きの一つは、このように「いやし」という業でした。しかし、この癒しは、働きの一つであり、これがすべてではありませんでした。この後の話の展開を見るとそのことが分かってくるのです。

【律法より人】

イエスの癒しの働きは、人々の求めに応じたものでしたが、同時に律法主義への挑戦でもあったようです。それは、この癒しがいつ起こったのかということから想像できます。

21節にあるように、この出来事は安息日の出来事でした。安息日にはしてもいい事と、してはいけない事、つまり禁止事項がありました。禁止事項とは働くことでした。そして、ここに見られる「いやし」という行為は労働とみなされていたようです。

32節を見ると分かるように、多くの人たちは日が沈んでから病人を連れてきました。ユダヤでは日が沈んでから、一日が始まりましたので、日が沈んだと言うことは、安息日が終わってから病人をイエスのところに連れてきたという事なのです。

ここには事柄のうわべを大切にするのか、それとも本質を大切にするのかという迫りがあります。

律法を大切にするという事は、正しい事です。イエスご自身も律法をないがしろにして良いとは、一言も語っていません。ですから、ここで律法に対する挑戦と言いましたが、それは律法を敵視することではなく、本当の意味で律法を理解するための問いかけだったと思うのです。

事柄の本質を見抜かないで、うわべだけを繕うという事は、非常に愚かで滑稽なことではないかと思うのです。

当時の律法学者たちが語っていたことは、きっとそういったうわべの繕い方だったのではないでしょうか。律法をマニュアルのように捉え、この事例にはこういう対処方法を当てはめ、別の事例には場合は、違う対処方法を当てはめなければならないということを教えていたのではないかと思うのです。

こうして、当事者としての人を見るのではなく、事柄だけを見て対処することにイエスは挑戦されたのです。

イエスの眼差しの先には、律法の規定ではなく、助けを求めている人々の姿が映っていたのです。そこに助けを必要とする人があるならば、律法の規定であろうと、何であろうと誰もイエスの働きを止めることはできないのです。

そして、それは人間イエスの働きであると同時に、神の計画(みこころ)でもあるのです。

【休むこと】

イエスは、このように安息日であろうと、そこに助けを必要とする人がいるならば、働きを止めることはされませんでした。しかし、それは、いつでもどんな時にでも身を粉にして働かなければならないという事ではありません。

イエスは天地創造の業で神が七日目に休まれた、その意味を理解していました。それは、ただ働けば良いのではなく、きちんと休むことの必要性を教えてくださる、神の哀れみでもあり、イエスはそれを実行されているのです。

安息日にも人を癒し、日が暮れて、安息日が終わってからも、続々と人々は病人を連れてきました。そして、その一人ひとりをイエスは癒されたはずです。

その働きが何時頃まで続いたのでしょうか。それは分かりませんが、一段落ついて、イエス一行は休まれたのでしょう。しかし、翌朝、まだ日が昇らないうちにイエスはひとり人里離れた所へ行かれました。それは神との交わりの時間を作るため、つまり祈りの時を持たれたのです。

肉体的な疲れを癒し、回復させるためには、ゆっくりと寝ていればよかったのでしょうが、イエスは肉体的な疲れだけではなく、精神的にも、霊的にも完全な、全人的な回復方法をご存知だったのです。

私たちは肉体を休めますが、精神と霊を休めるということを忘れがちなのです。しかし、これこそが人間にとって大切な事なのです。

そのためにイエスはひとり祈られたのです。ただ祈りということも様々な側面を持っていて、ある時には重労働のようになるし、ある時には癒しになるものなのです。

ゲッセマネの園で祈られた時、イエスは血が滴るように汗を流して祈られました。精根尽き果てるような思いをして祈られたと思いますが、今回は違ったようです。

神の前に祈りを捧げることによって、神との親しい交わりに入ることができたのです。そして、神との親しい交わりの中で、私たちの肉体も、精神も、霊もすべてが平安を得て、休むことが出来たのです。完全な休みを得ることによって、完全な回復を得たのです。

イエスの働きのエネルギー源は、まさにこの祈りという行為から、溢れてくるものだったのです。

【次の働き】

夜が明けてイエスがいないことに気づいた弟子たちは、急いでイエスを呼びに出かけました。それは、まだ癒しを必要としている病人がたくさんいたからです。一晩では癒しきれないほどたくさんの人々が連れてこられていたということです。

しかし、イエスの答えは、彼らのところに戻ることではなく、他の町へ行くということでした。カファルナウムに留まっていれば、癒しを受けた人や、その家族から感謝され、歓迎され、何不自由なく暮らしていけたはずですが、イエスの使命は、さらに多くの人たちの必要を満たすことでした。この小さな町に留まって、満足される方ではなかったのです。

さて、この箇所にある安息日からの、イエスの働きを見ると矛盾だらけのように感じます。最初の場面では、安息日であるにも関わらず、悪霊を追い出したり、病人を癒したりという労働をしています。

ここだけを見ると、助けを必要としている人のためには、休日返上で働くことが求められているように感じますが、翌朝には、まだ癒しを求める人がいるにもかかわらず、日が昇る前にひとり人里離れた所に行かれ休憩しています。

また、安息日の規定よりも、助けを必要とする人がいるならば、その人を大切にしたかと思えば、まだ、助けを必要としている人がいるのに、使命のためにはその人を見捨てて、他の町に出て行かなければならないと言って、出て行ってしまう。

いったいどっちなの?と問いただしたくなってしまいます。しかし、これが祈りの答えなのではないでしょうか。

私たちは、すぐに感情的なり、感情に支配され、感情に動かされてしまいます。もちろん感情も神によって与えられたものですから、悪いものではありません。しかし、神以外のものに支配される時、私たちは誤った道を歩んでしまうということを忘れてはいけないのです。

感情的になって、感情に支配された時の行動は、神の計画(みこころ)とは関係のないものになってしまうのです。いくらそれが倫理的、道徳的に正しいことに見えたとしても、神の計画(みこころ)でなかったならば、そこにはエゴと自己満足しか残らないのです。

いつも祈りの中で神の計画(みこころ)を尋ね、計画(御心)を行う者となる事が出来れば幸いです。