前 奏
(*招 詞   詩編118編23~24節)
(*讃 美   新生4   来たりて歌え)
開会の祈り
讃 美   新生287 主イエスこそわが生命
主の祈り(司会者が祈りますので心を合わせてください)
(*讃 美   新生240 主は生きたもう)

「振り向くと・・・」        ヨハネによる福音書20章11~18節

宣教者:富田愛世牧師

【早朝の出来事】

復活の日の早朝、まだ、暗いうちにマグダラのマリアはイエスが収められている墓へと行きました。すると、墓の入り口をふさいでいた大きな石が取り除けられているのを目にして、恐ろしくなって他の弟子たちの所に戻り「主が墓から取り去られました」と報告したのです。

それを聞いたペトロともう一人の弟子は、事の真相を確かめるために墓へと走っていきました。もちろんマリアも一緒について行ったと思いますが、そのことには触れずに、ペトロよりもう一人の弟子の方が走るのが早かったようで、先に墓に着いたという事が記録されています。

そして、墓の中をのぞくと亜麻布が置いてあるのを見るのですが、中には入らなかったようです。少し遅れてペトロが到着し、ペトロが墓の中に入ってみると、そこにはイエスの遺体はなく、イエスの遺体を包んでいた亜麻布がそこに置いてあるのを見たのです。

ヨハネ福音書は20章9節で、この時の弟子たちのことを「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と記録しています。

ペトロともう一人の弟子は、そのまま家に帰っていったようですが、マリアはそのまま一人残って、墓の外で泣きながら立ち尽くしていたようです。

【前向き】

この時のマリアの心境はどのようなものだったのでしょうか。

イエスの十字架での死を目の当たりにして、大きな悲しみや喪失感に押しつぶされそうになっていたと思うのです。

しかし、墓に行っているという事から想像するならば、ただ悲しんでいたり、喪失感に捉われて、押しつぶされてはいけないという思いがあったのではないかと思うのです。

イエスが語り続けていたように希望をもって生きなければならない、前向きに生きなければならない。それこそが信仰者としてあるべき姿ではないかと、自分に言い聞かせていたという面もあったのではないかと思うのです。

希望をもって生きるとか、前向きに生きるという事はとても大切なことです。特に不幸な出来事の中にある時、周りのことを否定的にしか捉えられなくなりそうな時には、希望や前向きな思いはとても大切だと思うのです。

マリアもそのような状況の中にあったからこそ、頑張っていたのではないでしょうか。この頑張りがなくなってしまうと、それこそ、くずおれてしまいそうになっていたのではないかと想像するのです。

【呼びかけ】

悲しみや喪失感に捉われ、絶望してしまいそうな中にあっても、前を向き続けるマリアに呼びかける声がありました。

初めの声は天使の声でした。

天使は「婦人よ、なぜ泣いているのか」とマリアに問いかけました。

この時の天使とマリアの位置関係はどうだったのでしょうか。マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに二人の天使を見つけるのです。一人は頭の方にいて、もう一人は足の方に座っていたと記録されています。

マリアは墓の中には入らず外から中を見ているのですから、マリアの前に天使たちはいたという事になります。そして、天使の問いかけに対して「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と答えながら後ろを振り向いているのです。

答えながら後ろを振り向くと、そこにイエスがいたのです。

マリアはなぜ後ろを振り向いたのでしょうか。もしかするとイエスの気配を感じて後ろを振り向いたのでしょうか。

それとも、答えながら、その答えの空しさ、つまり「わたしの主が取り去られました」という現実から目をそむけたくなってしまったのかもしれません。

答えは分かりませんが、いずれにしても振り返るとイエスがいたのです。そして、イエスも「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使と同じ質問をし、さらに「だれを捜しているのか」と続けるのです。

この質問はイエスだからできる質問ではないでしょうか。そこにあるべきはずの遺体がないことを知っているから「だれを捜しているのか」と問いかけられるのです。しかし、マリアはイエスだとは気づかず、園丁だと思い込んでいたのです。

【マリア!】

マリアは、園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と返事をしています。

それに対して、イエスは「マリア」と名前で呼びかけられるのです。名前で呼びかけられたことによって、やっとマリアはイエスに気づくのです。

初めにマリアに声をかけた天使とマリアの位置関係はどうだったかという点に触れました。天使はマリアの前にいたのです。マリアにとって前を向くという事は正しい事、信仰者として自分のあるべき姿だったのです。

しかし、イエスは目の前にはいませんでした。後ろから声をかけてくるのです。マリアは振り返りイエスを見ますが、はじめはイエスに気づいていないのです。なぜなら前を向くことが正しいと思い込んでいたからなのです。前向きに生きることが唯一の道だと思い込んでいたからなのです。後ろにいるはずがないと思っていたのです。

しかし、イエスは後ろから声をかけてくださるのです。「マリア」と名前を呼んでくださるのです。

復活の出来事とは、私たちの勝手な思い込みを超えた、神の業なのです。前を向くことも大切です。しかし、時には振り返ってみることも大切なのです。それは、悲しい時に悲しいと涙すること。悔しい時に悔しいと怒りをあらわにすること。嬉しい時に嬉しいと喜ぶこと。嫌な時に嫌だと拒否すること。赦せない時に赦さないと宣言することなのです。

讃 美   新生246 ハレルヤ ハレルヤ 感謝を捧げよ

主の晩餐

招きのことば 
わたしたちは今、
主イエス・キリストがわたしたちに行うように命じられ、
わたしたちを招かれている主の晩餐にあずかろうとしています。
主の晩餐は救いの手段ではなく、救われた者として、
主への感謝と応答の行為です。
したがってパンと杯はイエスの死を記念する
象徴として用いています。
今回新型コロナウイルス感染予防のために飛沫感染の危険性を
極力取り除いた主の晩餐式を考える時、
実物としてのパンと杯を用いるという危険性より、
あくまで象徴という立場をとることから、
実物を用いない方法を選び取ることとしました。
わたしたちはパンと杯を受けるとき、
かつて主イエス・キリストがわたしたちのために
十字架に架けられたことを、
驚きと畏れのうちに思い起こします。
そしてキリストは復活され、今もわたしたちと苦しみを共にし、
わたしたちを教会として
結び付けていて下さることを深く感謝いたします。
またキリストが再び来たりたもう日に、
この食卓を全ての人々と共に囲むことができるために、
パンと杯に与ったわたしたちはこの身を主に捧げて、
主と共に働きます。
実物の配餐は行いませんが、
パンが象徴すること、杯が象徴すること、それぞれを思い起こし、
一人ひとりが心のうちにパンと杯をいただきましょう。
 
制定のことば
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、
主から受けたものです。
すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りをささげてそれを裂き、
『これは、あなたがたのためのわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、
『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、
わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(一コリント11:23~26)
 
祈 り
 
配餐 
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、
使徒たちに与えて言われた。
『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22:19)
 
「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。
『この杯は、あなたがたのために流される、
わたしの血による新しい契約である。』」(ルカ22:20)
「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」
(一コリント11:25)
 
祈 り
(感謝の祈り・奉仕者の自由祈祷)
 
「教会の約束」
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏