前 奏
招 詞   エゼキエル書36章26節
讃 美   新生4   来たりて歌え
開会の祈り
讃 美   新生252 喜べ主を
主の祈り
讃 美   新生426 語りませ主よ
聖 書   マルコによる福音書2章13~17節
          (新共同訳聖書 新約P64)

「罪人の友」                マルコ福音書2章13~17節

宣教者:富田愛世牧師

【生活の場】

 今日の箇所は、前半でレビという徴税人を招くイエスの姿が描かれ、後半では徴税人や罪人というレッテルを張られた人々と共に宴会を楽しまれるイエスの姿が描かれています。

13節を見るとイエスは「湖のほとり」に行かれました。この地域に住む人たちの多くは漁師であり、湖は漁師たちにとっては生活の場だったのです。

 私たちの感覚の中には宗教というものは生活の場とは違った、非現実的な出来事と受け止めてしまう感覚があると思います。

よく言われる言葉に「聖と俗」という表現があります。もしかすると宗教というものはそれでいいのかもしれませんが、私にとってキリスト信仰は宗教ではなく、生き方なのです。

聖書に書かれているイエスの生き方がキリスト信仰だと思うのです。もちろんイエスと同じ生き方ができるということではありません。イエスの生き方の中に自分も組み込まれ、そこで慰められ、希望を与えられるということです。

イエスは生活の場に出て行きました。これは特別なことではなく、日常の延長線上にある、普通の出来事だったのです。ここでは「群衆が皆そばに集まって来た」とありますが、これも、生活の場、人のいる所に出て行ったから人々が集まってきたわけです。

そして、群衆とは普通の人です。一生懸命に生活し、その生活を楽しみ、友達を作ったり、趣味をもったり、また、喜んだり、悲しんだり、傷ついたり、悩んだり、いろんなことがありますが、一生懸命生きている人たちなのです。

 イエスはいつもそんな人々の中に入って行かれたのです。だから人々と出会うことが出来たのです。祭司や律法学者のように俗人とは付き合わず、聖なる領域に留まるのではなく、出て行かれたから、生活の場に入っていかれたから、普通の人と出会われたのです。

【レビの決心】

イエスは人々と生活の場で共に過ごすことによって、様々な出会いを経験するわけですが、14節では収税所に座っているレビと出会われました。

このレビという人は徴税人でした。徴税人というのは、ローマ帝国への税金を取り立てるのが仕事でした。

ユダヤ人というのは非常に民族的なアイデンティティーを大切にしていたので、特に他の国による支配に対して、反抗的な感情を持っていたようです。ですから、徴税人はローマの犬と呼ばれ、軽蔑されていました。このレビという人も当然のように人々から軽蔑され、ユダヤ人社会から疎外されていたのです。

しかし、イエスは収税所に座っているレビを見つけ「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。どういうことでしょうか。

それは、他の人々からは軽蔑されているかもしれないし、祭司や律法学者たちからは罪人というレッテルを張られているかもしれない、しかし、私はあなたを一人の価値ある人間として見ているのだということを表しているのです。

だから声をかけられたのです。どうでもいい、関係ない人ではなく、イエスの人生の中に組み込まれるべき、一人だということなのです。

そして、レビもその言葉に対して、素直に従っているのです。聖書には「彼は立ち上がってイエスに従った」としか書かれていません。レビの心境は何もありません。しかし、この後イエスを家に招いて宴会を開いているところに、レビの思いが込められているのではないでしょうか。

【罪人の友】

15節からは場面が変わり「食事の席についておられた」と書かれています。これはただいつものようにお昼ご飯を食べるとか夕食を食べるという言葉ではなく、祝宴の様子を表す言葉が使われています。

つまり、レビは自分を認めてもらったことに対して、できる限りの感謝を表し、イエスもあなたと同じ習慣の中に入り、あなたを理解するよ、ということを態度で表しているのです。

しかし、それを見た律法学者たちはイエスの事を非難しているのです。でも、この非難する気持ち、分からなくもないのです。私たちはクリスチャンになったからには罪から遠ざかり、清い生活をしなければならないと思うのです。

この思いは決して間違いではありませんが、一面しか現わしていないのです。罪から遠ざからなければならない人もいるし、イエスのように罪人の中に入っていって、罪人と出会い、彼らに罪からの赦しを伝える人も必要なのです。

イエスはご自分の使命を自覚していたので「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」と答えられたのです。

この出来事は単純に白黒付けられるものではありません。私たちに大きな問いかけをしているのです。

この光景を教会に当てはめるとどうなるでしょうか?罪人というレッテルはユダヤ教の指導者たちが貼ったものです。

同じようにクリスチャンはクリスチャン以外の人にレッテルを貼っていないでしょうか。もし貼っているとしたなら、イエスに招かれているのはクリスチャンではない人々だということになるのです。

また、ここでは律法学者たちをイエスの敵対者と見ることが出来ますが、彼らは聖書に忠実な人々でした。熱心に聖書の言葉を守っていた優秀な信仰者たちだったのです。

このように私たちはこっちは良くて、あっちが悪いというように比較するのではなく、また、批判するのでもなく、イエスが「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」と言われた、その言葉を聞いていくべきなのではないでしょうか。

【義人?罪人?】

このイエスの言葉は、社会から排除されている人たちに対する哀れみから出てきているのです。哀れむということは、曖昧にすることではありません。

「しょうがない」とか「大目に見る」ということではなく、ハッキリと罪を罪と認めた上でその人の人格を見ていく事なのです。そうするなら、その人の弱さが見え、神の哀れみによる以外、救われないことに気づくのです。

ここで言われる罪人とは、律法を守らない人、守れない人のことを指しています。しかし、人間は律法を守りきることができるでしょうか。律法を守り、罪を犯さないという生活が可能なのでしょうか。

この後、断食や安息日の問題が出てきますが、それらは守りきれない規定なのです。律法が罪人を作ってしまうのです。ここに律法の限界があるのです。つまり、人間の限界があるという事なのです。

人が自分の力で義と認められるようになろうとするならば、限界にぶち当たり、そこで自己矛盾が起こってしまうのです。自己矛盾が起こっていて、どうにも出来ないことがわかっているのに、義人でいようとするなら、その人は偽善者となってしまうのです。

本来、人間が神の前に立つ時、そこには義人も罪人もありません。みんな同じ土俵にいるはずなのです。敢えて言うならば、みんな罪人と言えますが、その罪人というのは、憎むべき罪人ではなく、哀れむべき、そして、愛すべき罪人なのです。

愛すべき罪人なんて言うと変な感じですが、神が憎まれるのは「罪」であって「罪人」ではありません。罪を持っているけれど、と言うか、罪を持っているからこそ、私たちは愛されなければならないのです。そして、その愛に気づいたならば、答えたくなるのではないでしょうか。

讃 美   新生453 主よ われは今ぞ行く
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏