前 奏
招 詞   ガラテヤの信徒への手紙3章28節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生435 山辺に向かいてわれ
主の祈り
讃 美   新生384 語り伝えよ 神のみ言葉
聖 書   箴言19章21節   (新共同訳聖書 旧約P1016)

「健康な教会」                   宣教者:富田愛世牧師

【健康とは】

今、私たちは新型コロナウイルス感染予防という事のために様々な制約の中にあります。国においても「緊急事態宣言」が出され、人との接触を最低7割、できれば8割避けるようにという要請が出され、多くの人が協力しようとしています。とても大切な事であり、自分の命を、そして、大切な人の命を守るためには、一人ひとりの行動が重要であると伝えられています。

私を含め、多くの人は、今、改めて健康の大切さに気付かされているのではないかと思うのです。半年前までは「自分が感染しているかもしれない」など、ほとんどの人が自覚していなかったと思います。自分は健康だから、人に病気をうつす可能性があるなどと、考えてもみなかった人がほとんどではないかと思うのです。

健康の大切さを真剣に考えさせられ、健康であることのありがたさを実感することができたという点では、今回のことは、まだ終息していませんが、大きなきっかけになったのかもしれません。

しかし、半年前まで、私たちは「健康」だったのでしょうか。健康という言葉の定義を調べてみました。日本WHOでは「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」と定義づけられています。

この定義からいうと、多くの人は「そもそも健康ではなかった」という事ではないでしょうか。今、感染症という明らかに不健康状態を作り出すものがクローズアップされているから、不健康であるという事に気づかされているような気がします。

【健康な教会とは】

今日は健康について話そうとしているわけではないので、これ以上、つっこむのはやめて本題に入りたいと思うのですが、人間と同じように「教会」にも健康な状態と不健康な状態があると思います。

教会が健康であるとか、健康でないとか、いったいどういう意味だろうかと不思議に思う方がいるかもしれません。聖書によると教会はキリストの体であり、有機的な共同体なのです。無機的な、機械的な共同体ではなく、命を持った共同体なのです。だから、健康な時もあるし、健康が損なわれてしまう時もあるのです。

今日は「健康な教会」と題していますが、健康ではない教会がダメなのかと言うとそういうことではありません。私たちの肉体も酷使したり、疲れがたまったりし過ぎると、体が警告を発して病気になることがあります。もちろん病気になる前に休んで、疲れやストレスをとることが大切ですが、それが出来ない時もあるのです。教会にも同じことが言えるのです。ただ、私は健康でいたいと願っています。そして、教会が健康でいることによって成長していきたいと願っているということなのです。

それでは、健康な教会とは、いったいどのような教会なのでしょうか。

今から20年ほど前に「健康な教会のカギ」という本が出版されました。アメリカの南部バプテスト連盟に加わっているサドルバック教会のリック・ウォレンという牧師が書いた本ですが、この内容に私は大きな影響を受けています。

この教会の真似をしたいとかいう事ではないので、ご心配なく。ただ、この本が主張している、内容、本質的なものに共感しているし、とても聖書的だと思っているのです。そして、その本質に限ってですが、教会の中で共有できたらと考えているのです。

この本の英語の題名は「The Purpose Driven Church」といって、直訳すると目的に主導される教会というのでしょうか。私の英語力では、とうてい理解できない言葉なのですが、Drivenという単語は、車の運転などに使われるドライヴという単語の過去分詞だという事で「主導」と訳されています。

簡単に言うと「リードする」とか「コントロールする」でいいのではないかと思うのですが、それらよりも広がりのある意味で使っているように感じますので、ここで訳されている「主導」という言葉を使います。

【教会を主導するもの】

「健康な教会のかぎ」という本によると、教会を主導するものには代表的なものが7つあるということです。もちろん、細かく見ていくともっとたくさんあると思いますが、数が問題ではありません。何に主導されるかを見ていくことが大切なのです。そして、これらが良いとか悪いという事ではなく、それぞれの特徴を再確認することが大切だと思うのです。

第一は伝統に主導される教会、第二は個人によって主導される教会、第三は財政によって主導される教会、第四はプログラムによって主導される教会、第五は建物に主導される教会、第六は行事に主導される教会、そして、第七として求道者に主導される教会がありという事です。

それぞれ、細かく見ていく時間がないので興味のある方は、この本をお貸ししますので後で読んでみてください。

これらの7つのものは、それぞれ独立している場合もありますし、複合的に絡み合っている場合もあります。それぞれはとても大切な事ばかりです。しかし、神の目的ということからみていくならば、枝葉的な事柄なのです。「木を見て森を見ず」になってしまうのです。これらの枝葉的なものが、教会を主導していくならば、片寄った教会になってしまうのです。

また、ここには出てきていませんが、とにかく伝道しなければならないとか、「この地域に住んでいる滅びゆく人々を救う事が第一だ」というような、上から目線の精神論によって主導されるとするなら、それもまた、非常に片寄った教会になってしまうのではないでしょうか。

【目的主導の教会】

教会はキリストの体としてそれぞれの地域に建てられています。そこには神の計画というものが先立って、存在しているのです。そして、その計画には確かな目的があるのです。

この教会はなぜ存在しているのかと問うことから始めなければなりません。神がこの教会を通してなさろうとしていることをはっきりとさせなければ、目的を再発見しなければ活性化しないのです。

教会でよく耳にする言葉に「前はやっていた」というものがあります。しかし、これに続く言葉がないのです。私はこれに続く言葉が大切だと思うのです。「前はやっていた」「だから今度やりましょう」「けれど今は出来ない」「そして今はやらない」「したくない」どの答えも大切な意味があります。状況の変化によってやれなくなったこともあるでしょうし、今はすべきでないこともあります。やったことによって傷ついて、もうやりたくない。そういうことが大切なのです。

なぜそうなるのか。それは、はっきりした目的を共有していなかったからなのです。目的がはっきりしていれば、すべきことは続いていき、必要のないことはしなくなるのです。

アメリカのある教会コンサルタントが「教会は何のために存在するのか」という質問を千くらいの教会の教会員にしたそうです。その結果、89%の人が「自分と家族の必要を満たすため」と答え、残りの11%は「人々をキリストの救いに導くため」と答えたそうです。同じ質問を牧師たちにしたところ、全く反対の結果になったそうです。目的が共有されていないのです。

市川大野教会では2016年度にヴィジョンを語る会が開かれ2017年度の基本方針にそれが盛り込まれました。その流れの中で、これからの教会形成を一人ひとりが考え、思い描いていく必要があると思うのです。

2020年度はコロナウイルスの影響によって、スタート時点でつまずいているような感じがあるかもしれません。しかし、色々な試行錯誤の中で、確実に前に進んでいます。そして、活動方針が執事会から提案されます。私にとって初めての経験ですが、活動方針を書いていないのです。これだけ聞くと「牧師は仕事していないのか」と思われるかもしれませんが、市川大野教会の素晴らしい面だと思っています。

もちろん牧師として教会をこのように導いていこうというものはあります。しかし、それを押し付けるのではなく、教会の中で一緒に共有していこうというのが市川大野教会のスタイルなのではないでしょうか。その下地として、私にはメッセージを語っていくという使命が与えられているのだと思います。

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」具体的な目的を一緒に探し求めていくことができれば幸いです。

讃 美   新生370 主イエスに答えて
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏