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「本末転倒」 マルコ福音書3章1~6節
宣教者:富田愛世牧師
ビジネスや教育の分野にいる人は、モチベーションという言葉を日常的に耳にしていると思いますが、横文字なので、どういう意味か良くわからない方もたくさんいらっしゃると思います。日本語に訳される時には「動機」と言われる言葉なのです。「どうき」と言っても心臓がドキドキするやつではありません。何かをする時の意識的、または無意識な原因です。
多くのビジネス用語に共通することですが、モチベーションという言葉もアメリカのクリスチャンビジネスマンが提唱して広まった言葉だということです。日本でも自己啓発の分野でモチベーション開発の第一人者と呼ばれる人は牧師をしていた人だそうです。
私たち人間の行動というものは、いくらその結果が良いものだったとしても、動機が不純だと長続きしないのではないかと思います。同じように、教会という共同体も活動する時に、その動機がどこから出てきているのかを確認する必要があると思います。
5月の初めに「健康な教会」についてお話をしました。健康な教会とは明確な目的意識を持って、それを元にして具体的な目標を立てていくことによって成長するのです。しかし、明確な目的意識を持つということは、とても難しいことです。市川大野教会の目的は何だろうかと考えていますが、まだ明確なものが出てきていません。しかし、それが悪いということではありません。この現実を踏まえた上で成長するために健全な動機による目標設定、活動計画が大切なこととなるのです。
この健全な動機というのは、教会においてはキリストの語られた福音に後押しされたものです。この福音には様々なテーマ性があります。すべてを自分たちで担うことは無理です。市川大野教会には市川大野教会に似合ったテーマが与えられているはずです。それを発見することができれば幸いだと思っています。
【善悪の基準】
さて、今日の箇所は先週の続きになっていて、安息日論争と呼ばれる部分の後半です。先週のところでは、イエスの弟子たちが安息日にしてはいけない「収穫作業」をしたということで、ファリサイ派の人々から非難されていましたが、今日の箇所では手の不自由な人を癒すかどうかが試されました。
先週のところはある意味でどうでも良い事柄かもしれません。安息日に麦の穂を摘もうが、摘むまいが、その場においては命にかかわることでも何でもなかったのです。人はある出来事を判断する時、善悪の判断基準を持って、判断しようとします。そういう意味ではどうでも良かったことかもしれません。ただイエスは、その判断基準は神であり、神の子としてのご自身だということを現わしています。
それに対して、今日の箇所は明らかに一人の手の不自由な人が登場し、その人の手が癒されるかどうかということ、良い事が行なわれるかどうかということなので、先週のところはジャブを打って様子を見、今週のところはストレートを打っているような感じがします。
この論争に限らず、イエスの考え方とファリサイ派の人々の考え方はずっと平行線をたどっています。それは、お互いに違った善悪の判断基準を持っており、その基準に従った動機から、それぞれの行為が起こっていたからなのです。
イエスが何かをする時の動機とは、神の愛を実践することでした。それに対して、ファリサイ派の人々たちが何かをする時の動機は、ユダヤ教の伝統に従った律法の厳守ということだったのです。しかし、このファリサイ派の人々の動機も、元をたどるならば、神によって与えられた戒めを守ることによって、神に喜んでもらいたいという事だったと思うのです。ですから、最初の動機は健全な動機だったにも関わらず、時間の経過と共に、人間的なアレンジが加わり、神の前に純粋な動機ではなくなってしまったという事なのです。
私を含めて、人はすぐに「善悪二元論」的な判断をしようとします。これはとても危険な思想です。なぜなら人間には善悪を判断する基準は与えられていないからです。最終的な裁きは神に委ねるしかないということを心に留めておかなければならないのです。
【イエスの怒り】
イエスはここで人々の策略を知りながら、片手のなえた人に向かって「真ん中に立ちなさい」と呼びかけられました。そして、人々に向かって「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかけられましたが、人々は黙ったままでした。
この人々とはファリサイ派の人々もいたでしょうが、それだけではなかったと思います。ですから、彼らが答えなかった理由も2種類あると思いますが、たぶん彼らは明確な答えをもっていたはずです。
ファリサイ派の人々の基準は律法でしたから、それに従うか従わないかが問題となります。ただし、そこに生死に関わる問題がある時は例外もあったそうです。ならば、ここでは片手のなえた人を癒したのだから、と思うのですが、ファリサイ派の人々の考え方に従うならば、わざわざ安息日にしなければならないほどのことではないのです。日が変わって、次の日になってから、改めて治してあげればよかったという事なのです。ですから、イエスが安息日にこのような行為に及んだということには、全く必然性がなかった、単純に安息日の規定を破っただけと考えたのです。
その他の人々は、あるいは安息日に善を行なうイエスに味方していたかも知れません。しかし、ファリサイ派の人々の目があったので、意見を言うことができなかったのでしょう。そして、イエスに対して、もう少し上手く立ち回ればいいのにと思っていたのではないかと思うのです。何もわざわざ波風立てなくても良かったのにと思っていたのではないかと想像します。
しかし、イエスの態度はいつもハッキリしていました。私たち日本人の美徳には「和を以て貴しとなす」というものがあります。波風立てるより、自分が折れることによって場を丸く収めようとか、問題の解決を先送りにすることによって、和を乱さないようにしようとか考えてしまいます。しかし、イエスは「和」ということよりも、神の正しさを優先されたのです。
そして、怒られたのです。聖書の中でイエスが怒るということは、あまり出てきませんが、ここでは怒っておられるのです。しかし、考えてみるならば、私たちは無関心な相手に対しては怒りを表さないと思うのです。
【イエスを殺す人】
イエスの怒りの対象は、ある意味で人々のかたくなな心だったと思います。この「かたくな」という言葉は「無くなる」という意味に訳すこともできるそうです。かたくなな心の人とたちとは、心のなくなってしまった人たちなのです。ですから、彼らから心を奪ってしまったもの、つまり律法主義というものに対してイエスは怒りを表したのだと私は理解しています。そして「かたくなな心」に対する悲しみだと思うのです。
イエスは人々のかたくなな心を悲しみ、片手のなえた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われました。かたくなな心に対して、神の哀れみ深さを見せたのではないでしょうか。空っぽになってしまった心、枯れてしまった心に感動を与えようとしたのではないかと思うのです。しかし、そんなイエスの思いも、ここでは届かなかったようです。
ファリサイ派の人々の心は、本当にかたくなになっていました。しかし、彼らは決して悪い人たちではありません。悪い人ではありませんが、自分たちの正しさを守ることに熱心になり過ぎ、他が見えなくなってしまったのです。彼らの熱心さは戦場においても安息日には戦わず、無抵抗のまま、殺されるほど徹底していたそうです。
律法を厳守するということは悪いことではありませんが、かたくなな心、つまり間違った動機で、それを行なうならば、人を幸いに導くものではなくなるということです。反対にやわらかい心、つまり健全な動機で、それを行なうならば、違った結果になっているはずです。それは、神に喜ばれる結果です。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することの大切さを律法は語っているのです。神の愛から出てくる動機に従って律法を読んでいくことが出来るなら幸いです。
讃 美 新生639 主の恵みに生きる 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A) 祝 祷 後 奏