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「群集心理」 マルコ福音書3章7~12節
宣教者:富田愛世牧師
【おびただしい群衆】
福音書を読むと、そこには必ずと言っていいほど、群衆がイエスを囲んでいる様子が描かれています。イエスは、とにかく群衆に受け入れられた人だったという事なのです。そして、今日の箇所は、その中でも特別な箇所なのです。
何が特別なのかというと、第一に「おびただしい群衆」という書き方そのものが特別だったということです。すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが「頭痛が痛いのです」と同じなのです。頭痛が痛くなるのではなく、頭が痛くなる事を頭痛と呼ぶわけですよね。同じように、人がおびただしくいるから「群衆」なので、おびただしい群衆という言い方はとてもおかしな言い方なのです。しかし、ここには原語でも、そのように書かれているそうです。それくらい大勢の人がいたことを強調しているのです。
そして、群衆が登場する時は、「その他大勢」として扱われるのが一般的です。しかし、ここでは「その他大勢」ではないのです。この群衆に焦点が合わされて、話が進んでいくのです。これはとてもめずらしい事だと思います。たぶん、ここ以外に群衆に焦点が当てられているところはないと思います。
このおびただしい群衆はガリラヤだけではなく、遠く南はエルサレムを越え、イドマヤからですから100km以上離れたところから来ているわけです。ティルスとシドンは共に地中海沿岸の異邦人の都市でした。シドンの方が北に位置するので、西はティルスから北はシドンという事になります。東に目を向けるとそこはヨルダン川の向こう側ということでした。そこは特別な町の名前はあげられていませんが、すぐにアラビアの荒野、砂漠が続いていたわけです。
このようにイエスの噂はガリラヤに限らず、パレスチナ一帯に広まっていたということです。そして、そこに住む人々がイエス一目見よう、そして、病を癒してもらうためにわざわざ出かけて来ているのです。今のように交通網が発達しているわけもなく、みんな歩いてくるわけです。本当に驚くべきことだと思うのです。
【群衆との関係】
群衆に受け入れられると言うことは、一方的な事柄ではなく、受け入れられる側にも、受け入れる側にも、それなりの理由があったと思います。
世間一般では、知識人は群衆を軽蔑し、政治家は群衆を利用すると言われます。誰が言ったのかは知りませんが、納得してしまいます。テレビなどを見ていてもそういう場面をよく見ます。知識人といわれる人が「そんな事も知らないのか」とか「勉強してから来なさい」などと一般人をバカにした様な言い方でコメントすることがあります。また、政治家の多くは一般受けしそうな、甘い言葉で群衆を味方につけようとします。しかし、実際の政策は、その甘い言葉を拡大解釈して「あなたたちが支持したんですよ」などと言って、既得権の保護しか考えていないような気がします。
イエスの時代においても、ファリサイ派の人たちは群衆を軽蔑していました。ファリサイ派という名前自体が「分離された者」という意味で、律法を守れないあなたたち罪人と一緒にしないでほしいと言う思いが溢れている気がします。私はこの伝統がピューリタンにも受け継がれているような気がしていて、注意しなければならないと思っているのです。
そして、ファリサイ派と仲の悪かったサドカイ派は祭司や貴族階級の人々でした。彼らの関心事は政治的な事柄で、いかに群衆を味方につけ、利用して自分たちの既得権を守るかが最大の関心事だったのです。この辺の駆け引きはイエスを十字架に架け、殺そうとする時にあらわに出てきているのでよく分かると思います。
それではイエスと群衆との関係はどうだったのでしょうか。イエスは群衆について「飼う者のない羊」と言われたことがあります。これは軽蔑の言葉ではなく哀れみの言葉でした。軽蔑していたとするならば、イエスの元に集まって来なかったでしょう。また、利用されることはあっても、群衆を利用してはいません。もし、群衆を利用しようと思えば、エルサレム入場の際の歓迎ぶりを考えるなら、そのまま利用できたはずです。しかし、利用しませんでした。
それでは、群衆をどのように捉えていたのでしょうか。それは「飼う者のない羊」と哀れむほどに愛しておられたという事なのです。イエスにとって群衆とは愛すべき人々だったのです。
【群衆の目的】
さて、それでは群衆はなぜイエスの元に集まってきたのでしょうか。それは彼らの求めに答えてくれたからです。具体的には病の癒しでした。病を癒していただきたい、また、悪霊を追い出してもらいたい、これが彼らの一番大きな願いであり、関心事でした。
とても純粋で素晴らしい動機だと思います。時々クリスチャンの中に「苦しい時だけ神様に頼るのはいかがなものか」という批判的な意見を言われる方がいます。言いたい気持ちも理解できますが、人間はパーフェクトにはなれないのです。いつでも神と共にいることがベストですが、調子の良い時や悪い時には離れてしまうこともあるのです。しかし、もう自分ではどうすることもできない、頑張れないと思った時にこそ、頼れる何かがあることが救いと言うことなのではないでしょうか。
この群衆はとにかく熱烈にイエスのところにやってきました。それこそ、イエスが身の危険を感じるくらいの熱烈さだったようです。9節をみると「群衆に押しつぶされないため」となっています。それくらい、ここに集まっていた群衆は熱烈にイエスの回りに集まったのです。そして、自分たちの思いを伝え、願いをかなえてもらおうとしたのです。
しかし、一つ残念なことがあります。それは、この群衆は熱烈にイエスの元に来ましたが、イエスを理解してはいなかったという事なのです。そして、イエスを理解していたのは、なんと「汚れた霊」だったのです。11節を見ると「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ」とあるのです。
この後、イエスはたぶん身の危険を感じ、弟子たちが用意した小舟に乗って群衆から離れたと思います。イエスを理解していない群衆にとっては、癒されないで残念な結果になってしまったと思いますが、イエスを理解していたとするならば、直接、手を触れて癒されなくても、癒しの業を信じることが出来たはずです。
そして、私たちはこの恵みにあずかっているのです。直接イエスにお会いすることはありませんが、神の子としてのイエスを信じることによって、その全能の御業を信じることが出来るのです。
【証言者】
それでは、この「汚れた霊」はイエスを神の子と告白したのだから救われるのかと言うと、少し違うわけです。一つのことを認めて、信じて告白しても、それは「信仰」からくるものだけとは限らないようです。現にここでは「汚れた霊」は恐れの告白として、イエスを神の子だと告白しているのです。
「汚れた霊」とは闇の存在です。神の子イエスとは聖書が証言するように「光の子」であり、闇を滅ぼす力なのです。ですから「汚れた霊」にとっては、自分たちを滅ぼすために来た力なのです。ですから、彼らの告白は「あなたこそ神の子ですから私たちを救ってください」というものではなく「私たちに関わらないでください」というものだったのです。
そして、いつも思うのですが、この告白に対するイエスの答えが難解な答えなのです。誰にも言わないように厳しく戒めているのです。なぜなのでしょうか。私たちには理解できない「神の時」があるという事なのです。私たちは、人の法則で考え、人の価値基準で判断します。しかし、神は天の法則で考え、天の価値基準で判断するのです。これはどうしても人には理解できない事なのです。後の者が先になり、悲しむ者が幸いだと言う福音の奥義なのです。
さてもう一度、群衆について見てみたいと思うのですが、ここではイエスと直接、出会えた人もいますが、出会えなかった人の方が多かったと思います。もし彼らが「ガッカリ感」だけを抱えて帰って行ったとするなら、その噂が広まって、もうイエスの所には誰も来なくなってしまうと思います。しかし、人々はこの後も来るわけです。なぜでしょうか。
それは「汚れた霊」の告白を聞き、イエスを神の子と理解した人たちもいたからではないかと思うのです。癒された人だけがイエスを宣伝したのではなく、癒されずに帰ってきた人の中にも、イエスが神の子だと告白する人がいたのだと思うのです。神はそのような証言者を一方的な選びによって決められるのです。それこそ、ある時には敵対者のような者たち、ここで言うならば「汚れた霊」をも用いて、真理を伝えることのお出来になる方なのです。
讃 美 新生280 主イエスのみ名をほめよ 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A) 祝 祷 後 奏