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「モザイクな弟子たち」 マルコ福音書3章13~19節
宣教者:富田愛世牧師
【弟子選び】
今日のタイトルは「モザイクな弟子たち」としました。モザイクとは小さなものを寄せ集めて、一つの作品にする装飾美術の技法ですが、この世の一般常識に照らし合わせるならば、整えられていないものが集められているといった否定的なイメージがあるように思います。
ですからメッセージのタイトルにするにはふさわしくないかも知れませんが、敢えてイエスの弟子選びについては、この言葉がしっくり来るような気がするのです。
今日は13節から読みましたが、流れとしては7~19節が一つのまとまりとなっているので、前回の続きとしてみていただきたいと思っています。前回7~12節では、群衆を哀れむイエスの姿と敵対する者をも証言者にしてしまう神の偉大さが語られましたが、その流れの中でイエスは弟子選びをしているわけです。
私たちが何かのチームを作ろうとするなら、有能な者をメンバーに加えたいと思うのが普通かもしれません。野球チームなら野球の上手な子や協調性のある子を選ぶでしょう。しかし、イエスの弟子選びにはそういった意図は見られませんでした。また、選ばれる側からするならば、何らかの基準のようなものがあって、それに達していれば選ばれるという事だと思うのです。しかし、イエスの弟子選びには、それもありませんでした。
能力や資格、また境遇や思想というものは、全く関係なくイエスは弟子選びをしたのです。そこにあったのは、ただ主イエスの意思だけだったのです。
【有名な弟子】
イエスの選んだ12人の弟子には様々なタイプの人がいました。後に有名になった人もいれば、何をしていたのかさえ分からないような無名な人もいたのです。しかし、12人は12人揃ってはじめて使徒と呼ばれる集団になったのです。
さて、16節からは一人ひとりの名前が出ているので一人ずつ見ていこうと思います。はじめにシモンですが、イエスはシモンにペテロ、つまり岩というあだ名を付けました。意志が強そうだったからでしょうか?しかし、3度イエスを否定したり、水の上を歩こうとして失敗したり、ゲッセマネの園で居眠りをしたり、そういった失敗をあげるとキリがありません。ですから意志が強そうに見えたのではないと思います。イエスが付けたあだ名は今のシモンではなく、これからのシモンの姿を暗示していたのではないかと思うのです。
次にゼベダイの子ヤコブとヨハネにはボアネルゲス、つまり雷の子というあだ名を付けられました。雷ですから、かなり激しい性格を持っていたのでしょうか?兄のヤコブの方には多少そういった特徴があるように思えますが、弟のヨハネはイエスに愛された弟子と言われており、激しいと言うより優しい性格の持ち主だったように思えます。この名前もペテロと同じように今の二人ではなく、これからの姿を暗示していると思われています。雷と言うのは「神の声」を意味しています。彼らは神の言葉を語る伝道者として、この後、活躍するようになるのです。
次にチョッと飛びますが、名前だけではない人として、熱心党のシモンがでてきます。この肩書きは、今の状況を正確に伝えているそうです。熱心党というのは、今で言うなら過激な右翼です。テロ活動も平気でやってしまうくらい過激だったそうです。
そして、このシモンと共通点を持っていそうな、イスカリオテのユダが出てきます。イスカリオテというのはカリオテの人という意味だそうです。このカリオテとは地名だとする説が一般的ですが、短刀を懐に持つという意味もあるそうです。短刀を懐に持つ人ですから、ヤクザのような人だったのかもしれません。
【名前だけ】
18節のアンデレからタダイまでは名前だけ書かれています。一人だけヤコブはアルファイの子ヤコブとなっていますが、これは17節のヤコブと区別するためだったと思われます。
アンデレ、フィリポ、トマスはそれぞれに他の箇所で1、2回程度、登場しますが、それだけなのです。
ちなみにこの12弟子のリストというのはマタイ10章3節、ルカ6章14節、使徒言行録1章13節にもあり、ほとんど同じですが、チョッとだけ違うところもあるのです。
今までの9人に加えてバルトロマイの名前は弟子のリストにしか出てきませんが、マタイ、ルカ、使徒のリストに同じ名前で出てくるのです。
ところが残りの二人、マタイとタダイについては同一人物かどうか疑わしい書き方がされています。はじめにマタイを見ると4つのリスト全部に出てきますが、マタイ福音書には徴税人マタイと書かれています。ところがマルコ2章13節以下には徴税人レビという人が出てきてイエスの弟子になっているのです。徴税人マタイとレビは同一人物と思われますが、なぜ違う名前で書かれているのかは今だにわからない事なのです。そして、このマタイは徴税人ですから、ローマの手先、売国奴と呼ばれる人でした。熱心党のシモンやイスカリオテのユダにとってはこの世で一番嫌いなタイプだったはずです。
そして、最後にタダイですが、マタイ福音書とマルコ福音書には出てきますが、ルカ福音書と使徒言行録には出てこないのです。代わりにヤコブの子ユダという人が出てくるのです。たぶん同一人物と思われます。
この後半に出てくる弟子たちは、あだ名も付けられませんでしたし、肩書きもないし、ただ名前だけでした、それは取るに足りない人たちだったからなのでしょうか。決してそんなことはありません。12人揃わなければ、イエスの選んだ使徒ではないのです。
私はこの12人は究極の寄せ集めだったと思うのです。寄せ集めですから仲が良かったり、お互い尊敬したり、助け合ったりすることもありませんでした。誰が一番偉いかを言い争ったような集団でした。でもイエスはこの12弟子を選ぶことによって、教会の姿を私たちに示してくださったのだと思うのです。
【弟子の任務】
イエスが彼らを選んだ目的は、弟子集団が一致団結して進んでいくことではありませんでした。14節を見ると「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ」と書かれています。という事は彼らを神の任務につかせるために選ばれたと言う事なのです。
そして、イエスのとった、この順番がとても重要なポイントになってくるのです。ところが教会は伝道することに急ぎすぎて、しばしばこの順番を忘れてしまいます。と言うより、はしょってしまいます。
イエスの順番は、最初に弟子たちを側に置きました。日本の伝統的な職人さんのやり方と似ているような気がします。最初から包丁は握らせない、ノミは使わせないのです。最初は側で見ているだけなのです。しかし、この側で見るだけというのが、奥の深い行為なのです。見て、覚えた方法を、ただの猿真似でしても意味がないのです。
その行為にいたる物語、歴史、文脈があるのです。それを読み取ることができて、初めて目的を共有することができるのです。そして目的を共有できたならば、動機を理解することができるのです。
12人の弟子たちは、残念ながら一つになれたわけではありません。お互いを受け入れるのではなく、干渉しあっていたようです。マルコ9章34節で誰が一番偉いかを論じ合った時、自分が偉いと勘違いし、最後の晩餐でイエスが「この中に私を裏切る者がいる」と言った時も、自分ではない、誰かが裏切ると思っていたのです。
そんな弟子たちでしたが、イエスは使徒として選びました。そして、側にいてご自身を示され、さらに、彼らに干渉したのではなく、受け入れたのです。
イエスが十字架に架かり、処刑される時、この弟子たちの姿勢は変わりませんでした。しかし、使徒2章にあるペンテコステの出来事、聖霊が降ることによって、彼らは変えられたのです。
次の段階「派遣」される段階へと進んだのです。
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