前 奏
招 詞   イザヤ書40章31節
讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生 16 み栄えあれ愛の神
主の祈り
讃 美   新生506 主と主の言葉に
聖 書   エフェソの信徒への手紙1章11節
                     (新共同訳聖書 新約P352)

「健康な人」          エフェソの信徒への手紙1章11節

宣教者:富田愛世牧師

【健康とは】

 先月の第一日曜日は「健康な教会」というテーマでメッセージを語りましたが、今日はその教会を形作る私たち人間が健康でいるためには、どうすればよいのかと言うことがテーマです。「どうすればよいのか」と言うと何かしなくてはいけないような気がしますが、今日の聖書を読むならば最後のところに「約束されたものの相続者とされました」と完了形で書かれています。つまり、何かをするのではなく、既にそうされているということに気づけば良いのです。

さて、健康と言うことですが、先月も少し触れましたが、WHOによると「健康とは、何事に対しても前向きな姿勢で取り組めるような、精神および肉体、さらに社会的にも適応している状態をいう」となっています。病気ではないということが健康だと理解することが多いと思うのですが、そうではありません。そして、この健康の定義に当てはめるならば、かなり多くの人が健康ではないということになってしまうかも知れません。

さらに近年、これにスピリチュアルなもの、霊的なものを加える考え方が増えてきています。ただでさえクリアするのが難しいのに、さらにハードルが高くなるように思えます。しかし、このハードルは越えなければならないものではありません。聖書を読むと分かるように「御心のままにすべてのことを行なわれる方のご計画によって前もって定められ」とあります。そのような計画の中で進められているというのですから、私たちはその計画に乗りさえすればよいということなのです。

福音書を見るならばイエスが、様々な場面で「癒しのわざ」をされています。イエスの「癒し」は肉体の癒しだけではありませんでした。精神的にも安心を与え、社会性に欠けていた人も、癒された喜びから変えられ、社会性を取り戻しています。そして、もちろん霊的にも神との関係を回復させています。これこそが全人的な「癒しのわざ」なのです。

イエスの周りに集まり、癒された人々は経済的にも社会的にも、多くを失った人々でした。ですから、人々はイエスにすがる他なかったのです。WHOの基準からするならば「前向きの姿勢」なんて持ち得なかった人々です。しかし、そんな人々が癒され、健康を回復したということは、前向きな姿勢に変えられたということなのです。つまり、イエスによって明確な目的が与えられたということなのです。

【私は健康なのか?】

それでは、今ここにいる私たちは健康なのでしょうか? 話の続きで考えるなら、前向きに、目的をもって生きているのでしょうか? このような質問をすると「お前はどうなのか」という質問が返ってくると思います。

「もちろん、私は前向きに、目的をもって生きていますよ」と答えたいのですが、躊躇してしまうのが事実です。ただ、ここで確認しておかなければならないのは「前向きに、目的をもって生きていなければならない」とするならば、そう思い込んでいる時点で、不健康な状態になってしまうという事です。

今、私は「前向きに、目的をもって生きる」という事を一つの定義のようにしてしまいましたが、これは「そうならなければならない」のではなく、結果として、そうなっているという事だと思うのです。

イエスの癒しの記事を見ると、マタイ福音書では4章23節に最初の癒しが記録されています。そこでは「民衆のありとあらゆる病気や患い」と書かれています。続く24節には「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」とあるのです。つまり肉体的な病だけではなかったという事です。

それでは、イエスに癒してもらった人たちには、どのような変化があったのでしょうか。

先ほども言ったように、肉体的な癒しだけではなく、「こうならなければならない」と思い込んでいたけれど、そうなれなかった人たちが挫折感を持ったり、自己否定的になったりして、自分の中に閉じこもってしまった人がいると思うのです。そんな人たちに対して、精神的に安心を与え、社会性に欠けていた人も、癒された喜びから変えられ、社会性を取り戻しているのです。

私は健康なのか?ではなく、イエスが私を健康にしてくださるという結果を聖書は記録しているという事なのではないでしょうか。

【イエスのことば】

イエスが人々を健康にされた「ことば」とは、どのような「ことば」だったのでしょうか。

マタイ福音書では4章後半で癒しの業が行われたすぐ後の5章から山上の説教と呼ばれるものが記録されています。

5章3節からは「心の貧しい人々は、幸いである」から始まる有名な「幸い」についての教えが語られ、6章9節からは主の祈り、7章7節では、私たちの教会の今年度の主題聖句である「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」ということばが語られています。

この山上の説教が終わって、次の6章には重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言い、それに対して「よろしい。清くなれ」と答えて、この人は癒されているのです。

イエスは私たちに向かって「幸いである」と語り、祈ることの大切さを教え、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と願い求めることを許してくださるのです。

これらのことばは、神の御心を伝えるためのイエスのことばです。神の御心とは、私たち一人ひとりがかけがえのない存在で、神によって愛されている一人であるという事実を伝えることです。

エフェソ1章11節によるならば、神が私たちに与えて下さった目的とは、私たちが「約束されたものの相続者」となることです。「神の民として選ばれた」ということなのです。これが人間を造った神の目的です。この目的を再確認することが、今の私たちには必要なのです。

約束されたものの相続者とは、神の家族となることが出来るということなのです。神の家族の目に見える形というのが教会です。教会の交わりに加えられるということが、その目的の一つなのです。

それでは教会に加わった者はいったい何をすればよいのでしょうか。何かの修行をしなければならないのでしょうか。修行を積んで、精進を重ね、神に近づくのでしょうか。見当違いもはなはだしいです。はじめに言ったように完了した形で書かれているということは、すでに目的は達成されているということなのです。ですから、私たちはその事実を感謝すればよいのです。感謝の方法は祈ることであり、賛美であり、礼拝なのです。

【健康な人】

神によって与えられている目的を見出し、それに向かって歩む時、私たちは生きがいを感じ、全人的な健康へと導かれるのです。

「人生の目的なんて悠長なことを言っている暇はない、とにかく今を生きることに必死なのだ」と言われる方もいるでしょう。しかし、もし水平線しか見えない大海原に、ひとり漂っているとするならば、とにかく泳がなければなりません。しかしどこに向かって泳ぐのでしょうか。たどり着くことの出来る岸が見えなければ、ただ泳ぐだけで体力を消耗し、いつか力尽きてしまうのではないでしょうか。目的の岸辺が見えていたならば、そこを目ざして、泳ぐことが出来るのです。

今、私たちには、岸が見えないのではありません。聖書はハッキリと岸を示してくれます。そして、神はすべての人が、その岸に向かって泳ぎ、救われることを望んでおられるのです。

健康な人とはイエスによって癒された人のことです。そして、今私たちはイエスの語られた御言葉を通して、イエスに出会うことができるのです。その御言葉を受け入れ、御言葉に従うということがイエスの癒しを受け入れるということです。神はすべての人が「健康な人」となることを望んでおられます。

信仰を持つということは、何かを手に入れることではありません。既に神によって植え付けられている「信仰」という種を心のうちに見つけ出し、解放すればよいのです。

讃 美   新生516 みそば近くなお近く
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏