前 奏
招 詞   箴言1章7節
讃 美   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生105 くしき主の光
主の祈り
讃 美   新生495 主よみ手もて
聖 書   マルコによる福音書3章20~30節
                   (新共同訳聖書 新約P66)
宣 教   「不都合な人物」

「不都合な人物」             マルコ福音書3章20~30節

宣教者:富田愛世牧師

【帰宅するイエス】

 今日は20節から30節までを読んでいただきましたが、内容としては最後の35節までが一区切りとなっているようです。そして、ここには2つの大きな主題があります。

21節と31~35節が一つの主題で結ばれ、22節~30節までが一つの主題で結ばれているのです。

今日は2つのうちの一つ、22~30節までを中心に読んでいきたいと思っています。

 今日の箇所は「イエスが家に帰られると」という言葉から始まっていますが、変な感じがしませんか?聖書を読んでいると、イエスの生活スタイルは12人の弟子たちと一緒に旅の連続だったように思ってしまい、生活感が無いようにも感じてしまいます。どこかでヒーローにしてしまいがちだと思うのです。

しかし、イエスも人の子ですから帰る家がありましたし、生活から出てくる言葉ばかりだったのです。ただし、ここに出てくる家はペトロとアンデレの家だったようです。ここでペトロの姑が熱病を癒されて以来、イエスのお世話をしていたようなのです。

 それでは、家に帰るとはどういうことでしょうか。そこにはゆっくりと休むとか、ご飯を食べるとか、そういうことが含まれていると思うのです。ただの場所としての「家」ではなく、そこに帰ることによって休息をしたり、安らぎを得たり、また、家族との交わりも大切な要素の一つになると思うのです。イエスには、このような家での休息ということが必要だったのです。

【不都合な人物】

しかし、今日の場面では押し寄せる群衆のために、休むことも食事をとる事もできなかったようです。とにかく熱狂的に群衆が押し寄せてきていた様子が書かれているのです。

さらに21、22節を読むとイエスの休息を邪魔したのは、熱狂的な群衆だけではなかったようです。それは「身内の人たち」とエルサレムからやってきた「律法学者」たちでした。この2種類の人たちは、どちらもイエスに対して好意的ではありませんでした。

 イエスの身内の人たち、つまり家族たちが、なぜ好意的ではなかったのでしょうか。私たちは事柄の結論を知っているので、不思議に感じますが、当時の人々はまだイエスがメシアであることに気づいていなかったのです。

つまり、真実に対して無知であったという事なのです。イエスの家族は無知であるゆえにイエスのことを「気が変になっている」と思いました。一族にとって「不都合な人物」だったのです。それで、イエスを連れ戻そうとしたのです。

 また、律法学者たちはイエスが悪霊を追い出だしたり、病を癒したりする行為を「悪霊の頭」だから悪霊たちを支配していると言ってイエスを陥れようとしました。これもまた、彼らの無知や妬みから出た、愚かな発言なのです。彼らにとっても「不都合な人物」だったのです。

 しかし、私たちは注意しなければ、同じようなことをしかねません。宗教改革の時代、マルチン・ルターをはじめ、多くの改革者たちが出てきました。彼らは当時の主流の宗教家たちから悪魔呼ばわりされていました。バプテスト教会の歴史を見ても、最初の時代は異端だと言われ迫害を受け、多くのバプテスト信者は殉教しているのです。

 今でも教会の中で、新しいことを始めようとすると必ずと言っていい程、反対を受けます。しかし、20年経つとその多くは認められていくことが多いように感じます。

【内輪もめ】

イエスはそういった一方的な非難に対して、23節以下で譬話しを用いて答えておられます。

それはサタンであっても、国であっても、家であっても同じように内部分裂するならば、立ち行かないで滅んでしまうということです。

サタンや悪霊の働きを、私たちは誤解しています。それは、人間を不幸にしたり、病気にしたりすることだと思いこんでいますが、そうではありません。人間を神から遠ざけようとするのが、サタンや悪霊の働きなのです。

仮にイエスがサタンの頭だとして、他のサタンが「頭」に従うでしょうか。そもそもサタンという発想は、一人の天使が「自分も神のようになりたい」と言う高ぶりによって堕落したと考えられています。

この高ぶりから来ているわけですから、いつでもサタン同士が相手より上になりたいという権力闘争の繰り返しになってしまうはずです。ですからサタンの世界は「頭」を頂点にするような秩序ある世界にはなれません。

国や家も同じように内部分裂するということは権力闘争をくり返すということにつながり、立ち行かなくなるのは目に見えて当然の事なのです。

ただしここで誤解してはいけないのは、内部分裂するならば滅んでしまうということで、一つになりなさいということではありません。バプテスト教会は多様性ということを大切にします。この多様性という事と内部分裂を同じに考えてしまうことがあるのです。

しかし、ここには大きな違いがあります。違うもの同士がお互いに認め合うのが多様性です。そして、私たちは同じだ、一緒だと思っているもの同士がお互いに相手に向かって「おかしい」とか「変だ」というが内部分裂なのです。

イエスが語るのは一致ではなく、イエスがサタンの頭だから、悪霊を追い出すことが出来るという理屈は間違っていると指摘する事なのです。

そして、家を略奪するならば、はじめに強い者を縛りあげなければならないという理屈によって、イエスご自身がサタンをも支配する権威を持っておられることを表しているのです。

【赦しの信仰】

イエスは28節以降で「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と語ります。この言葉はいろいろな解釈がされ、聖書を読む多くの人々の関心を集めています。

ですから、これが唯一の正しい答えですということはできませんが、この言葉が神の御心を表しているということは間違いのない事実です。そこには徹底して人を赦す神の姿があるのです。

ただし、この赦しという事柄は、何でもかんでも赦しますよという、安っぽい言葉ではありません。続く言葉として「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と語られるのです。

どういう事でしょうか。聖霊の働きとは先程も言ったように罪からの解放です。つまり「赦し」の業です。聖霊を冒涜する者とは、この赦しを受け入れない者なのです。赦すという神の宣言を否定することです。

一見、謙遜を装っていますが、これほど大きな傲慢はありません。この神の赦しの業に反抗する者だけが、赦しから除外されてしまうのです。これが永遠の滅びなのです。

赦される事は私たちが犯す「罪」であり、赦されない事は神によって愛されている私たちが「滅びる」事なのです。

讃 美   新生271 光のみ霊
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏